2010年09月29日 (水) | Edit |
一切の迷ひは わが身の贔屓(ひいき)ゆえに
出かしまする。

盤珪禅師の言葉

すべての迷いは、わが身可愛さから生まれます。

私たちには、
ただ一つだけ
親から授かったものがあります。

それは「不生の仏心」です。

せっかく「生まれながらにして悟ったココロ」を
親から授かったのに
仏心のままでいることができません。

「地獄のココロ」や「餓鬼のココロ」
畜生、修羅等のココロに替えて迷います。

bankei

総じてすべての迷いは、
わが身の贔屓(ひいき)から生まれます。
たいがいは相手の言い方にひっかかって
仏心を修羅のココロに替えてしまうのです。
せっかくの仏の身が凡夫になってしまいます。

相手が何を言っても、どんな態度でも
気にしないで、わが身のひいきをせずに、
ただ仏心のままでいて、
ほかのものに替えさえしなければ
けっして迷うことはないのです。

盤珪禅師逸話選盤珪禅師逸話選
(1992/10)
禅文化研究所

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盤珪は元和八年(1622)三月八日に播州(兵庫県)網干の浜田で生まれた。幼時から神童視されたという。

十二歳の時に儒者について『大学』を学び、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という冒頭の一句に出くわして「明徳」とは何かという疑問に取りつかれてしまった。

盤珪は、「この明徳が済みませいで、疑わしくござって、久しくこの明徳を疑いまして」と後年述懐している。「明らかな徳」であるというなら、何故に重ねて明らかにする必要があるのか。

天に賦与された「空にして万事に応じ、霊妙で明らか」なるものが「明徳」だというが、わが身のどこにその様な霊妙な明徳があるというのか。そうした疑問に次から次へと襲われた。

盤珪はこの疑問をぜひとも解決したいと思い、儒者に尋ねたが、どの儒者も知らなかった。

ある儒者は「そのような難しき事は、よく禅僧の知っているものじゃ、禅僧へ行ってお問いやれ」(『盤珪禅師語録』岩波文庫版、43頁)といった。

とはいえ、近くには禅寺がなかったので、ここかしこの説法や講釈を聞いて、年老いた母親にも安心させたいと思ったが、なかなか明徳の埒(らち)は明かなかった。

十七歳にして盤珪は赤穂随鴎寺の雲甫全祥について出家得度したが二十歳の時この師のもとを辞した。

「明徳」の疑団を抱きつつ、稀に見る苦修をしながら諸国を行脚して善知識(善き指導者)を探し求めたが、その渇望にもかかわらず明師に出会うことはできなかった。

二十四歳にして随鴎寺の本師雲甫(うんぽ)和尚のもとに戻った盤珪は、自分の「明徳」に関する大疑を打破してくれる明師に出会う事がなかったことを涙ながらに訴えた。

fusyou


かくして盤珪は帰郷して野中村に庵を建て、そこでいよいよ決死の覚悟でこの難問を解決しようとするのである。

「この一大事を徹見せねば、世間には顔出ししない」という盤珪の決意は、その昔、釈尊が菩提樹下で禅定に入られる時、「もし大悟せずんば誓ってこの座を立たず」と覚悟されたのと同様の、全存在を賭けた真剣な誓いであった。

あまりに身命を顧みず数年間苦修を続けた結果、瀕死の大病(肺結核か)にかかり、その瀬戸際で遂に大悟の春を迎えるのである。

このいきさつについては、盤珪自身の有名な述懐があるので、それを聞いてみよう。

「それよりして故郷へ帰りまして、庵室をむすびまして安居(あんご)して、あるいは臥さずに念仏三昧にして居ました事もござって、いろいろとあがき廻って見ましても、かの明徳はそれでも埒(らち)が明きませなんだ。

あまりに身命を惜しみませず、五体をこつか(極果)にくだきましたほどに、居しき(尻のこと)が破れまして、座するにいこう(大層)難儀致したが、その頃は上根(上々の根器)でござって、一日も横寝などは致さなんだ。

しかれども居敷が破れて痛む故、小杉原(紙の一種)を一枚づつ取り替えて敷いて座しました。そのごとくにして座しませねば、なかなか居敷より血が出、痛みまして座しにくうござって、綿などを敷く事もござったわいの。それほどにござれども、一日一夜も終(つい)に脇を席に付けませなんだわいの。

数年の疲れが一度に出まして、大病になりましたれども、かの明徳が済みませいで、久しう間、明徳にかかって骨を折り難儀をしましたわい。

それから病気が次第に重うなって、身が弱りまして、たんを吐きますれば、血まじりのたんを吐きましたが、後には段々と重うなりまして、血ばかりが出ました。

その時ねんごろな衆が、それではなるまいほどに、庵居して養生せよと申すによって、庵居して僕(しもべ)一人を使うて煩い居ましたが、散々(さんざん)さしつまって、ひっしりと七日ほども食がとまって、重湯より外には、余(よ)の物はのどへ通りませいで、それゆえ、もはや死ぬる覚悟をして居まして、その時思いますは、はれやれぜひもない事じゃが、別に残り多い事は無けれども、ただ平生(へいぜい)の願望成就せずして死ぬる事かなとばかり、思うていましたおりふし(その時に)、のどがいなげ(異様)にござって、たんを壁に吐きかけて見ましたれば、まっ黒なむくろじ(木の実)の様な固まったたんが、ころころとこけて落ちましてから、それより胸の内がどうやら快いようになりました所で、ひょっと一切事は不生でととのうものを、今まで得知らいで、むだ骨を折った事かなと思いまして、従前の非を知ったことでござる。

・・・それより、段々日増しに快気いたし、今日までながらえて居りまする事でござる。ついには願成就いたして、母にも、ようわきまえさせまして、死なせましてござる。」

「一切事が不生でととのう」ことを知ったというのは、盤珪がある朝、外に出て顔を洗うに際して梅の馥郁(ふくいく)たる香りが鼻をうった途端(とたん)に、「明徳」に関するこれまでの疑情が突如として雲散霧消すること、まるで桶(おけ)の底が抜けたようであったという出来事を指している。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」

と、盤珪はその徹底した脱落の境涯を歌に残している。実に苦節十四、五年の挙げ句の果ての大悟であった。古人にもこれほどの苦修を行じた人は稀である。

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死の一歩手前まで行ったこの切実な経験から、盤珪は僧俗の弟子達に対しては、別段極端な骨折りをしなくても「不生の仏心」をわきまえさえすれば良いという、いわゆる「不生禅」を後年説くことになる。

苦修のせいで病弱であった盤珪は、四十三歳の時に京都山科の地蔵寺に住して以来、この地の閑静さを愛してたびたび閉関した。

「閉関」とは固く門戸を閉ざして人事を謝絶することであるが、そうはいっても修行者の参禅くらいは聞いたであろう。

盤珪自身はそれが「当時の人々の心の働きを見て、何とかして一言で人々の心にかなうようにと思い、遂に『不生』ということだけを強調する行き方を唱え出した」と述懐している。


盤珪の風格は「風度超逸、淳実慈愛」と伝えられるように、大慈悲心の権化(ごんげ)ともいうところがあった。その家風は「身どもは仏法をも説かず、また禅法をも説かず」といい、ただ「身の上批判」をして「不生の仏心」を説くだけであったがために、「不生禅」と呼ばれている。

古来の棒喝を行じて来た禅僧とは異なり、盤珪は自らの体得した体験的真実を如実に伝えるために、漢文によらず分かり易い平話を用いて説法して僧俗を安心立命させた。

また臨済宗に属する身でありながら、公案をほとんど用いず、その臨機応変の活作略(かっさりゃく、活き活きした対応)により直下(じきげ、立ちどころ)に学人の眼を開かせたのは、盤珪の腕力である。禅の特徴的行き方である「直指人心」とは本来そうしたものであろう。

説法の核心
盤珪の説法はこのように、簡単明瞭にしてすこぶる痛快なものなので、以下に於て盤珪自身をして語らしめよう。

「人々みな、親の産み付けてたもったは、不生の仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ。この不生にして霊明な仏心で一切事がととのいまする。」

「その仏心のままで得居ませいで(いることができずに)、地獄餓鬼畜生等の、あれに仕替えこれに仕替えて迷いまする。総じて一切の迷いは身のひいき故に出かしまする。向こうの言い分に貪著して、ひたもの(ひたすら)念に念を重ねて相続して止まず、仏心を修羅に仕替え、仏の身が凡夫になりまする。」

「迷わぬが仏、悟りで、外(ほか)に悟りようはござらぬ。不生で居る迷わぬ者に悟りは入りませぬわい。一人も只今の場には凡夫はござらぬ。」

「身どもはむだ骨折りが身にしみて、皆の衆に楽に法成就させたさに、こうして精出して説法し催促することでござる。盤珪がように骨折らずとも楽に法成就ができまする。」

「今日生まれ変わったように始めて示しを聞くように聞けば、内に一物がないから法成就が早くなりまする。」

「皆、身どもが言うように、身どもが言うに打ちまかせて、身ども次第にして、まず三十日不生で居て見さっしゃい。三十日不生で居習わっしゃれたら、それから後は・・・、見事不生で居らるるものでござるわいの。さて、すれば(そうならば)今日の活仏(いきぼとけ)ではござらぬか。」

「身どもが法は、諸方の如く、目当てをなして、或いはこれを悟り、或いは公案を拈提することなく、仏語祖語によらず、直指のみにて、手がかりのなきことゆえ、素直に肯(うけが)う者なし。」

「たとい十成(じゅうじょう、完全)に肯う者なしといえども、身どもが法は金子(きんす)のまるかせを打ち砕き散らしたるようなるもので、一分とりたる者は一分光り、二分とりたる者は二分光り、乃至一寸二寸、分相応に利益(りやく)あらずということなし。」

楽道庵「名僧列伝」より

iwanami
盤珪禅師語録―附・行業記 (岩波文庫 青 313-1)


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コメント
この記事へのコメント
krishnamurtibot
Krishnamurti
あなたが自分自身について学び、自分自身を見つめ、自分自身がどんなふうに歩き、どんなふうに食べ、どんなふうに語るかを見つめ、ゴシップや憎しみや嫉妬を見守る時に、そうした事をすべて自分自身の内部で自覚すれば、それは瞑想の一部となるのである。
2010/10/02(Sat) 18:54 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
TweetDeckはOK
TweetDeckというアプリを通してTweet。これだとRTも簡単に出来る。

ろくろくのRTをご覧になりたい方は、ろくろくブログの左下からどうぞ・・・または ↓
https://twitter.com/#!/rokuroku3
2010/10/02(Sat) 12:52 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
inomsk INO kobayashi_ecから
いいともでタモリが漏らした仕事論。「自分の中で『これくらいの力がついたらこれくらいの仕事をしよう』と思ってもその仕事は来ない。必ず実力よりも高めの仕事が来る。それはチャンスだから、絶対ひるんじゃだめ」以前萩本欽一も言ってた。「やりたくない仕事しか来ない。でも運はそこにしかない」
9月月23日 お気に入り リツイート 返信
2010/10/02(Sat) 10:53 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
RT リツィート
XPのPCからだとTwitterのRT (リツィート)が出来なくなっています。(;^_^A アセアセ・・・

そこでコメント欄にRT 

kabasawa 精神科医 樺沢 紫苑 earthfilmから
これはかなり画期的な発見! RT 赤ワインに含まれるポリフェノール(レスペラトロール)が海馬を刺激し認知症の予防のみならず、軽度の症状も改善する可能性が、名古屋市立大学の研究チームが明らかにした。適量はグラス2、3倍程度 #tvasahi
2010/10/02(Sat) 10:42 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ドキドキ♪

素晴らしいお言葉の数々を、心より感謝申し上げますm(_ _)m
ドキドキします☆♪
2010/10/01(Fri) 22:28 | URL  | ひろぼう #2ySkFsy6[ 編集]
krishnamurtibot
Krishnamurti
「真理」を求める人は、決してそれを発見することはできません。「真理」はあるがままのものにあるのです
2010/10/01(Fri) 18:22 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ありがとうございますm(_ _)m

今日もエアロビクスをしながら、あるいは温泉に浸かりながら…過去の過ちや自分の愚かしい行為を思い出しては、(あっ、又、私は今を生きれてない)と、クヨクヨしていました(;_;)

過去がどうあれ、未来がどうあれ…

今の状態が全てだと 受け入れて、生まれながらにして悟った心を持っていると安心して良いのですね

確かに、恐れや迷いは己を贔屓する心から生まれますm(_ _)m
不生、不滅、
今日も又、
救われましたm(_ _)m
2010/10/01(Fri) 17:52 | URL  | ひろぼう #2ySkFsy6[ 編集]
教えてくださりありがとうございます。
書から、いろいろ感じられてとても楽しかったです。
2010/10/01(Fri) 17:29 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
生まれながらにして悟った心を持っている事を忘れないで、 いつも過ごせたら…

生まれながらにして悟った心を持っている事に気づくために座禅などの修行をしている。

2010/10/01(Fri) 16:50 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ろくろくさんに質問です。
「不生」という書が載せられているのですが、どんな方が書かれたのですか?よろしかったら教えてください。

盤珪禅師です。

2010/10/01(Fri) 16:44 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
きれいな朝日です^^
おはようございます。

ブログは早くも秋色に衣替えをされたのですね。

今朝は茂木さんのコメントを読ませていただきました。
「書く」に共感しました。

とくに「⑥書く」
エッセイを書くとき、私はテーマについてある内的感覚をつかむことをまず心がける。そうして、机に座り、無意識からどのような文字列が出てくるか その流れをできるだけ邪魔しないように指をうごかす・・・でした。

ろくろくさんに質問です。
「不生」という書が載せられているのですが、どんな方が書かれたのですか?よろしかったら教えてください。

やまんばはろくろくさんが写真を掲載されるようになって、一人で「当てっこ」ゲームをしているのです^^^。

いつのまにか、陽が30度くらい昇ってしまいました。
2010/10/01(Fri) 07:02 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
不生なる仏心は死なない!
「仏心は不生にして一切事がととのいまするわいの」
と盤珪禅師は語ります。そして、続けます。

「いま不生でおるところで、死んでのち不滅なもの
ともいいませぬわいの。

生ぜぬもの滅することはござらぬほどに、
そうじゃござらぬか」

不生=生まれていない、のだから死ぬわけがない。
とおっしゃっているのでございます。

2010/09/30(Thu) 20:59 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
お二人のコメントに丁寧にお答えしょうとすると
何も書けなくなってしまいました。

気楽にコメントすることはできません。
2010/09/30(Thu) 20:46 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
生まれながらにして悟った心

生まれながらにして悟った心は、日々の雑事や雑念で汚れて行くものです(;_;)

生まれながらにして悟った心を持っている事を忘れないで、 いつも過ごせたら…
今を生きれる様に…まだ、今からでも、 成れるかも知れないと、思えます☆合唱
2010/09/30(Thu) 12:35 | URL  | ひろぼう #2ySkFsy6[ 編集]
日々、沢山の生仏様に生かされて

『明徳』
素晴らしいですね
やまんばさん、ろくろく先生、

食べ物が食卓に並んだ時…いつも…どの位沢山の命と作業によって、今、目の前に在るのだろう(;_;)
って考えてしまい、
何故か毎回…六回も
『頂きます!…』を合唱しながら、声に出してしまいます(笑)
そうしないと、もったいなくて、とても食べれません…

その内の一回は主人に向かって言います テレテレ(≧ε≦)

だけど、今日から、もう一回 感謝を込めて…自分自身にも、
『沢山の命の営みを頂かせて頂きます…』と 生かされている奇跡に合唱します♪
ろくろく先生の教え、やまんばさんの温かいコメントは

私のつたない作品造りと同様に…人生を創造する為に必要な大切な先生です☆

改めて、
これからも宜しく
お願いしますm(_ _)m
堅苦しく成ってしまってごめんなさい
今日も、ご機嫌よろしく お過ごし下さい (;∇;)/~~
2010/09/30(Thu) 12:20 | URL  | ひろぼう #2ySkFsy6[ 編集]
目に涙
さっき、コメントを送信して、今日の記載を読んでいきました。
やはり、言葉上は聴き慣れない言葉でむつかしいけど、一つだけは、きらりとひかり、やまんばの心に入ってきてくれました。

不生の仏心=生まれながらにして悟った心

やまんば、涙がでてきました。

子育ての途中で、気が付いたこと。
この子たちは完全で生れてきている。やまんばの小さな価値観で決してゆがめてはならない。ただ、天からの預かり物として守っていけばいいのだと。

自分自身もそうだったんですね。

もう やまんば、涙がとまりません。

感激の雨雲がやまんばの心を覆ってしまっています。

本当にありがとうございました。
2010/09/29(Wed) 06:02 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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