2010年08月09日 (月) | Edit |
平井謙次(1934~2005)さんは、地元のお寺で座禅中に
「悟り」体験をされ、その後の人生が一変したと仰っ
ています。その時の様子を彼のホームページから転載
させて頂きたいと思います。

平井謙次さんは子供の頃にかかった病気が原因で
重度の心臓病になり、何度か手術を繰り返されますが、
完治することなく、その生涯は病との闘いででした。

平井謙次


ある日のこと、その日もいつもの様に断食をしながら
家の近くのお寺で坐禅をしておりました。
夕暮時で、聞くともなしにお寺の鐘の音を聞きながら、
一人静かに坐っていた所へ、老師が通りかかりました。

そしてひょいと
「平井君、今鳴った鐘の音、どこへ行ったかな」
と聞かれたわけです。

突然の問いに私は「?」という感じで「分かりません」
と答えると、「そうかー。じゃあ一緒に酒でも飲もうや」
等と言いながら通り過ぎて行かれたのです。

ところがひょいと向きを変えて戻って来られ、
「あの鐘の音、どこから来たな」
とこう重ねて聞かれたのです。

その瞬間、私の中をものすごい強烈な衝撃が走り抜けました。

もとはこちら―誰も教えてくれなかった「根」の生き方もとはこちら―誰も教えてくれなかった「根」の生き方
(1993/11)
平井 謙次

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言葉にならない感動、感激、歓喜の中で、私はただただ
「ああ、そうだったのか」と心の中で叫び続けておりま
した。

この時の強烈な体験と、一体何がそうだと分かったのか
という事については、今をもって言葉などでは到底表現
できないものがあります。

しかしその時以来私の人生は一変してしまいました。
病気の方は相変わらずの重度の状態ですが、この心臓病
こそが私に与えられた佛様からの最高の贈物であると、
心の底から喜んで頂戴する事ができるようになりました。

人生観も死生観も激変しました。

その時聞いた鐘の音と老師の問いかけにより、私は自分
が体験する一切の事の原因は、自分自身の中にあるとい
う事に気づかされたのです。

自分以外の、何か他のもののせいで、自分がこうなった
等という事は絶対にないのです。偶然とか運の良し悪し
もありません。すべては当然の事ばかり、当たり前の事
ばかりです。

どんな小さな事でも、また大きな事でも、それを体験す
るにはするだけの原因が、自分自身の中に必ずあるとい
うことです。この事を「もとはこちら」というのです。

この「もとはこちら」という事は、何も私が初めて言い
出した事ではなく、お釈迦様もそう仰っています。

しかしその事を丸ごと飲み込み、実際の生活の中で実践
している人は極く僅かです。大方の人は何か事が起きる
と、かつての私の様に我が身の不運を嘆き、その原因を
自分以外の所に求めます。
しかしそれは明らかな誤りです。

私達の体験する事は、全て皆結果です。結果というのは
目に見えますから、仮にそれを表と言うなら、その裏に
あるのは言うまでもなく原因です。

薄い紙にも裏表と言いますが、裏と表は一対のもので常
にひとつ所にあります。どんなに間違っても表と裏が別
々の所にあったりは致しません。

これと同様、原因というものは必ず結果のある所にある
のです。

ところで人は「私は泥棒なんかしないのに泥棒をされた」
等と言い不運を嘆きます。

そこで私は「されたという事は、してあったという証拠。
これからはせんように気をつけて下さいよ」と返します。
そして身に覚えがないのにされるという事は、いかに根
が深いかという事も付け加えます。

また例えば戦争を体験した人は、戦争を体験するという
因子が自分の中になければ、決してそういう体験は致し
ません。自分の運命を作り出すのは自分自身です。

それでこそ「自分の人生の主人公は自分である」と言え
るのです。

もし自分の体験した事の原因が自分以外の所にあるとい
う様な間違った考え方で人生を送ると、向上浄化もなく
愚痴不平の多いそして破滅的な人生になります。

不幸になる事で、その考え方は間違っているという事を
佛様が教えて下さるわけです。

体験した事の全ての原因を自分の内に求め、正しく反省
し明るく訂正し工夫し修正していく以外に人の幸せはあ
りません。

もとはこちらという事は佛の道そのものです。
佛様は原因はAさんにあるのにその結果をBさんに与え
るという様な間違いは絶対に致しません。

因果一如が佛の世界、佛の法です。ですから体験してし
まった事は有難く頂戴し、次への学びの糧とするのみで
す。

佛の世界はまた悟りの世界でもあります。悟りの世界と
迷いの世界は、紙の表裏の様に分ける事のできない一体
の世界です。

だから私達のこの世界は、このままで佛の世界です。
極悪人であろうが極善人であろうが、皆佛の子であり、
佛の世界の住人です。

日常体験する全ては佛の御心、佛の法の顕れですから、
何が起きようがどんな状態になろうが、それは全て佛様
が、もとはこちらという事を教えて下さっている姿です。

もとこちら そのままぜんぶ あたりまえ ただありが
たく すみません  

~月刊誌「在家仏教」2000年6月号より掲載


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コメント
この記事へのコメント
学びや発見には尽きることはないのですね。
やまんばはなんだか人生がおもしろくなってきました。
自分の中の未知の領域に 触れたからだと思います。

穏やかな毎日ですが、心の中は青春が戻ってきたように感じます。

さて、今日の午後から一週間、お客様がこられます。
そこで少しお休みします。

丁度良い時間が与えられたように思います。
それではまた^^^^

日常をこなしながら、自分をみつめていきますね。
2010/08/12(Thu) 10:18 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
ひろぼうさん、ありがとう。
あなたの真心こもった懇切丁寧なやまんばへの言葉、印刷して大切にしておきますね。
ありのままでよいといって、勇気をくださりありがとう。

ただ、やまんばのありのままは、やまんばが気がついているだけではなさそうだ・・・・そう、ありのままが揺らぎ始めた・・・そんな感じです。

でも貴女が言ってくださったことは、大変正しいと思います。だから、貴女の言葉は今の貴女の誠から出てきた言葉ですから、大切にします。本当にありがとう!
2010/08/11(Wed) 13:17 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
ありのまま
もやもやした中から、一つだけ、はっきりしたことがある。
それは、やまんばのものを見る「眼」が問題なのだと気付いた。

確かにひろぼうさんにいわれるように相手(森羅万象)は自分の心の鏡だとは・・・・思う・・・・・
だけど、やまんばの見方が浅いと言おうか甘いと言おうか、途中で止めてるのだと気がついた・・・・・。
今回の「桜の精」もそういう自分がはっきりでている。
突然恐怖に襲われ、筆を止めた・・・・・

これだけは、本当に気がついたことだから、このことだけはコメントできるなあ・・・と思って今朝、ブログを開けました。

そうしたら、ろくろくさんの平井さんと、金光さんの「心の時代」の紹介がありました。
ろくろくさん、大変お世話になります。
ここで、一番今のやまんばにぴったり重なった言葉は

「無意識体の訂正を徹底的にする」

ということでした。

そうすることで、無我の世界に至る、なる。と書かれてある。

なんとなく、真理に至る道はこうなんだろうなあと思い、その方向に踏み出している・・・・これが今のやまんばの魂の状態なのかもしれない。だけど、見方が「曖昧」なのだと感じる。

いま、コメント出来るのは、これで精一杯です。
2010/08/11(Wed) 06:45 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
平井謙次「心の時代」より
NHK心の時代の黄金時代があるとすれば
このごろではなかったでしょうか。

もとはこちら―安心立命への実践―
1992年12月13日ETV
平井謙次(話人)×金光寿郎(ききて)

この記事はいずれメインページに掲載させて
頂くことになろうかと思います。
かなり長いですが、興味のある方は、どうぞ。


金光:  「もとはこちら」に続いて、「そのままぜんぶ あたりまえ」という言葉があるんでございますが、これはどういうふうに受け止めたらいいんでございましょうか。
 
平井:  これは、たとえてみますと、お寺の「鐘」と、叩く「鐘木(しゅもく)」と、それから「音」ということになぞらえてみますと、鐘木で鐘をドーンとやった、と。十回打てば、十回とも音は違う筈なんですね。強く打てば大きな音が鳴るだろうし、また当たり損ないは当たり損ないの相応しい音が出ますね。「十回打てば十回とも音が違うけれども、全部あたりまえ」なんですね。
 
金光:  あ、「そのまま全部あたりまえ」と。
 
平井:  ええ。十回打てば十回とも全部あたりまえなんです。そのまま全部があたりまえなんですね。これを我々人間に当て嵌めますと、「原因」と「縁」と「結果」と。「結果」というのが「音」ですから、体験していることは即ち音ですから、その音があたりまえ、そのままぜんぶあたりまえの音ですから。ということは、「我々体験している人生一瞬一瞬があたりまえの人生を送っている」わけですね。ですから、「原因と縁と結果という世界」からみれば、「あたりまえの人生をズーッと送り続けている」と。「あたりまえ」ということは、「ちょうどいい」ということなんです。ちょうどいい音が出ている筈なんです。十回打てば十回ともちょうどいい音が。
 
金光:  そうすると、「当たり損ないの音でも、それはそれでちょうどいい」と。
 
平井:  例えば、「当たり損ないの音」というのは、私でいうたら「病気だ」と。「病気体験が当たり損ないの音だ」というふうにも広義によく解釈すればできるわけですね。
 
金光:  「あたりまえ」という言葉を換えますと、「それはそれで必然的に起こるべくして起こったことである」というふうには言い換えることができるわけですね。
 
平井:  そうです。「全部必然によって起こってきている」わけですから、その「あたりまえということは、どういうことか」というと、「ちょうどいい」ことなんですね。「ちょうどいい」ということは「一番いい」ということです。
 
金光:  そうすると、「当たり損ないでも一番いい」と?
 
平井:  そういうことです。「当たって気にいった音だけがいい」というんじゃなしに、「当たり損ないの小さい音であっても、ほんとにちゃんと当たって素晴らしい音であっても、全部あたりまえですからちょうどいい」。「ちょうどいい」ということは「素晴らしい音」です。そのように考えていきますと、私自身がこういう病気を―病気という当たり損ないの音です、言えばね、これも「ちょうどいい人生」なんです。「自分にとって、一番良いごく自然の、ごくあたりまえの、一番素晴らしい人生」なんです。その内容がなんであっても、内容の有無に関わらず「最高の人生」を送っている筈なんです。だからその「最高の人生」を歩んでいるわけですから、「ただ有り難い」んですね。「健康だから有り難い。病気だから嫌」と言うんじゃなしに、「病気も健康も、失敗も成功も、全部有り難い」と。そして「その当たり損ないの音を、今後ださんようにしよう」と思えば、「自己反省」ということから始まって、「将来に向かって訂正していく」と。
 
金光:  そうすると、「そのままあたりまえ」の次ぎにあります「ただありがたく」というのはとにかく出てきたことは、「当たり損ないの音であっても、ありがたいことである。最高のものである」と。
 
平井:  そういうことです。
 
金光:  「その時その時最高のものが出ている」と。それに気が付くと、今度は「すみません」と言いますか、それはそれで、しかし、当たり損ないであれば、「ただありがとうございます」といっても、それで「満足できない」ということがありますね。
 
平井:  ええ。勿論「満足できませんから、訂正が起こる」わけです。「訂正を起こるようにしよう」と思えば、「自己反省」ということが大事ですね。「自己反省」というのは、「マイナスをプラスに変える特効薬」なんです。
 
金光:  その場合に、「すみません」という言葉が出てくるわけですか。
 
平井:  ええ。勿論、そういうことですね。
 
金光:  当たり損ないで満足できない。それじゃ次は当たり損ないでない、ちょうどいい音を出そうということは、また新しく第一歩を踏み出すということに。
 
平井:  そう思っているわけですね。「希望を持とうと思えば、当たり損ないの音を否定してしまうんじゃなしに、受け取ってしまう」と。「ただありがたく」。だから「ただ」と付けているんです。
 
金光:  もう理屈なしに。
 
平井:  「無条件に。理屈なしに、有無を言わず受け取って、そこから当たり損ないでない音にもう一遍挑戦する」と。
 
金光:  「無条件に受け取る」というところから、いま連想したんですが、有名な良寛さんの言葉に、
 
災難に会う時節には災難に会うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
 
という言葉がありますけれども、これは要するに、無条件に受け取るのがいいということを、言われたことになるわけですね。
 
平井:  そうです。まったく一緒のことですね。しかし、それで「将来にわたって何も求めない」というんじゃないですね。「受け取っておいて、気にいらんのだったら、違った結果がでるような方向付けなり、努力なり、工夫なりを、起こるような訂正が自動的に起こってくる」わけですね。
 
金光:  じゃ、その受け取り方が中途半端ですと、愚痴がでますよね。「なんでこういうふうな当たり損ないの音なんだろう」とか、「あの時もうちょっとこういうふうに撞けば良かった」とか、或いは鐘の方からいうと、「あの鐘木がもうちょっとうまく当たってくれたらもっといい音が出たのに」とか、そういうふうな形で過ぎ去ったことに対しての愚痴が出たりする。或いはうまく鐘が鳴った時には、自分は喜んで、「こんないい音が出たぞ」とか、そういうその受け取り方もあると思うんですけれども、そういう場合に、当たり損ないの音が出たのを愚痴っている場合には、次の第一歩というのはなかなか出来にくいことになるわけでしょうね。
 
平井:  そうです。愚痴とか不平、不満、泣き言、攻撃的なこと、
 
金光:  攻撃的なことも、
 
平井:  これみな「そちら」なんです。
 
金光:  「もとはこちら」ではなくて、「相手のせい」になるわけですね。
 
平井:  「相手のせいに、環境のせいに」したりですね。だから、「訂正が起こってこない」んです。
 
金光:  その時は「相手のせいにする時は、勿論感謝は起きない」わけですね。
 
平井:  不足ですから。
 
金光:  そうすると、全部肯定できた時に「ありがとうございます」と「全感謝」と言いますか、「全肯定」という。
 
平井:  「全肯定・全感謝」は一致のものですね。
 
金光:  そうすると、具体的に平井さんのお身体のことに関連した形でお伺いしますと、そういうご病人の身体で、いま状況になっていらっしゃっても、とにかく「全肯定・全感謝」というところに繋がるわけでございますか。
 
平井:  勿論そうです。
 
金光:  これはしかし、「そう思え」といってもなかなかこう思えるまでには、相当ご苦労と言いますか、これは相当大変なことじゃございませんですか。
 
平井:  そういう摂理があがってきますと、良し悪しを言わず、まず体験してしまってあるわけだから。
 
金光:  たしかに「なってしまっている」わけですからね。
 
平井:  それを受け取って、それから「どうするか」ということを考えると、だんだん「もとこちら」がわかってきました。「自分の主人公は自分である」と。「一切の責任は自分にある」と。
 
金光:  それは「意識できる、していることだけではなくて、無意識のことも含めて、要するに全部自分である」と。
 
平井:  勿論、「無意識のことも含めて、意識的なことも、肉体の上に起こってくることも、運命の上に起こってくることも、自分が主体者だ」と。「自分が両親を選んだんだ」と。
 
金光:  ほぉ!
 
平井:  「自分の無意識が、無意識的存在で両親を選び、両親が私という子どもを選んだ」わけです。
 
金光:  そうすると、意識的な行為は、今の現実世界では、無意識行動というのは、裁判なんかでは、罪は被らないということになっているようですけれども、「自分が主体であるというところには、無意識の責任も全部自分が負う」と。
 
平井:  勿論、そうなんです。「結果だけの自分じゃなしに、原因の自分も、その結果も全部自分」なんです。
 
金光:  そうすると、「いまここにある自分というのは、もう遙か昔の両親を縁として出てくる前、無意識の自分が選んだとすると、その前、もっと前までの自分」ということになるわけですね。
 
平井:  そうですね。「そういう自分でなかったらいかん」と思います。
 
金光:  で、それを自分で納得した、「ああ、自分というのは、そういう自分だった」ということになると、その次はどういうことが出てくるわけですか。
 
平井:  そういう自分になりますと、「何もかも全部受け取ってしまう」と。「素直にもうほんとに謙虚に、好むことと好まざることの別なく、結局受け取っていく」と。「受け取ってしまって、一個の方向転換と言いますか、そういうものが起こってくる」んです。
 
金光:  次ぎは、「今までと違う方向へ新しく第一歩を踏み出していく」ことになるわけですか。
 
平井:  そうです。私の場合、心臓病がメーンの病気ですから、その心臓病になるように今まで生活してきていたのを、違った方向付けができる、と。
 
金光:  その時には全部引き受けて、それでこういう自分ということに気が付いてみると、「ああ、自分はいろんな至らないこともしていた」というようなことに気が付くと、「ただ、ありがとうございます」と。同時に「ありがとうございます」と言えるということは、「そういうことに気付かなかった自分をお許し下さい」と言いますか、「ほんとにすみません」というか、そういうところにも結び付くわけでございますね。
 
平井:  そうですね。「ありがとう」から「訂正が起こってくる」わけです。
 
金光:  「ありがとう」ということに気が付くと、それは自分の至らなさというものに、
 
平井:  気が付きますから、だから「すみません」なんですね。
 
金光:  で、訂正というのが出てくる、と。
 
平井:  それで「反省が起こって、お詫びが起こって、懺悔、訂正ということになる」わけです。
 
金光:  さて、その場合の「訂正」というのは、「それまでの自分の、これが悪かった」と言いますか、「ここのところが足りなかった」ということを、今度は補う方向ということになるわけですか。
 
平井:  そうですね。私の場合は、他人を刺すようなことをやったに違いないんです。心臓病を病む、ということは。
 
金光:  というふうに、そういうことで受け取られるということですね。意識的には、他人を刺したり、勿論当然そういうことはなさっていらっしゃらないわけでしょうから。でもズーッと考えていると、「そういうことをやっているに違いない」と。
 
平井:  まあ、そういう推測が立ちますわね。
 
金光:  それはもう感じられるわけですね。
 
平井:  そういうことです。とにかく「因・縁・果」という三つの組み合わせによって、「摂理において起こってきている」わけですから、顔を見たら大体因がわかりますね。「その因の訂正、即ち無意識体の訂正を徹底的にする」ということがやはり一番大事なことじゃないでしょうかね。持ってあの世へいけるのは無意識体だけです。身体というのは一個の結果体で、一個の世渡りの道具ですから、その道具の上に重大な欠点が生まれてくるということは、「無意識体がおかしいわけですから、この世に生き続けながら、無意識体を訂正していく」と。
 
金光:  そうすると、「自分というのはもの凄く奥が深い」と言いますか、「広い」と言いますか、ほんとにもの凄く広がるわけですね。
 
平井:  そうですね。「はじめも知らん昔から」でしょうね。
 
金光:  あ、それで、
 
     我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
     皆由無始貧瞋癡(かいゆむしとんじんち)
      (華厳経)
 
と懺悔文(さんげもん)にありますが、「われ昔つくりしところの罪」というのがありますね。「無始―始まりのない昔から」。
 
平井:  積んできた埃みたいなものですね。それを「今生(こんじょう)で払う」と。そういう埃が、いわゆる私の場合は、「心臓病という形になって現れている」わけですから。
 
金光:  病気をそういうふうな形で、了解というとおかしいですけれども、「もうそうに違いない」と思われたところで、「ありがたい」という気持と、それから「すみません」という、そういう世界が開けていらっしゃるということでございますね。
 
平井:  そうですね。
 
金光:  しかし、「すみません」という、なんか消極的な感じ、受動的な感じがしますけれども、お話を伺っていると、決して受動だけではないようでございますね。
 
平井:  むしろ逆に積極的な、自分の本性と言いますか、「自分に罪を全体謝る」わけですから。
 
金光:  「もとはそちら」さんに誤るのではなくて、「自分のほうに、自分に謝る」。或いは「自分の中にいる神さまに謝る」と言いますか。
 
平井:  そうですね。
 
金光:  「本来の自分」と言いますか、「ただ、意識しているだけの自分ではないところで謝る」ということですね。
 
平井:  そうです。「相手という方は、自分の内面に」謝る一個の道具です。
 
金光:  あくまでも「自分である」と。「謝るのも自分」。そうすると、よく見るのが、「どうもすみませんでした」と、全然反省しないというのは、相手に謝っているけれども、自分自身に謝っていない姿である、と。
 
平井:  そうです。「すみません」で済ます、口先三寸でね。普通はああいうものは必要ないと思うんです。取り立てて、両手ついて、何にも訂正が起こってこないような詫びだということは、「本当の詫び」じゃありませんから。「それと下手に謝りますと、相手が正しいと、相手が思い上がってしまう」と。或いは下手に謝ると、相手の言いなりになってしまうというような、自動的に。そうじゃない、「ほんとの詫び」というものは、「将来に向かって訂正する」ということが起こってきて、「ほんとのすみません」になると思うんですよ。
 
金光:  そうすると、やっぱり自分自身に対して、「ほんとにすまなかった」と。「ほんとにすみませんでした」ということで、「自分がそれに納得できると、必ず次の新しい修正の生き方が出てくる」ということでございますね。
 
平井:  そうです。
 
金光:  それは平井さんの場合は、だんだんとそういうふうな形で考え方が変わってこられたわけでございますか。
 
平井:  勿論、だんだんと、不出来な者ですから、やっとこの歳になって、出来ているとは思っておりませんけれども、したいなぁ、と。
 
金光:  改めて心掛けと言いますか、そのトレーニング、これはなんか一度そういうふうに思えば、「よし悪かった。今日から改めよう」。それで済むことでございますか。
 
平井:  改めようと思ってもなかなか改まらんものですね。
 
金光:  ということは、まだ「ああ、そうか。改めたつもりでもまだダメだった」と。要するに、いつもそういうことに気が付くたびに、と言いますか。
 
平井:  毎日が初心で、これが出来たという日は一日もありません。
 
金光:  一つご飯を頂くにしても、ただ朝がきたから食べるとか、そういうところとは違ったところで味わうことができるようになるわけでございますね。
 
平井:  まあ一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)が自分を浄化するための一投足でなかったら、というふうになってくるわけですね。
 
金光:  やっぱり自分自身が病気になっているのが、「無意識のうちにでも、他人の心臓をえぐるようなことをしていたかも知れない」と。或いは「そういうことをしていたに違いない」というようなところで考えられるとすれば、今度は現在生きている生活をできるだけ「他人に温かく接する」とか、なんとなく生きる方向が変わってくるわけですね。
 
平井:  まあ生きる方向は「陰徳」とかと、そういうものじゃなしに、もっと現実といいますか、もっと「下座心」ですね、いわゆる「罪滅ぼしの人生」と。もっとも「過去に犯した至らんことの罪滅ぼしをこの場でする」と。そこに自分の生きる道があり、またそういうふうに心臓を何回も剔られるというような体験をしたわけですけれども、「その至らなさを少しでも罪滅ぼししたい」と。
 
金光:  そうすると、そういう姿勢で日常のことを受け取っていらっしゃると、たしかに「ただありがたく」、もう普通にこうできることが、「ただありがたく」というふうにお感じになられるでしょうし、それから一番最後の言葉にあります「すみません」という言葉ですね。やっぱり自分がそういう自分だということがわかると、「ほんとにこうやって生かして頂いている。神さまにすみません」というふうに、頭がさがるといいますか。
 
平井:  そうですね。それと「頭がさがる」というような場合と、「すみません」というのは、頭下げて言葉で謝るというんじゃなしに、やはり「すみません」ということは「一個の訂正が起こってくる」と。生き方にね。
 
金光:  訂正するわけですね。正しく直す。
 
平井:  訂正することが、「すみません」ということだ、と思うんです。訂正の伴わない「すみません」が本当に口先三寸の、
 
金光:  よく頭下げて「すみません」といいますね。
 
平井:  心が伴っていないわけですね。「すみません」ということは、「自分に間違いがありました」と。「至らんところがありました」と。「それを謹んで訂正するので、どうぞ一つ今回お咎めをお許しください」というのが、「すみません」だと思うんですね。
 
金光:  そうすると、口先で、「すみません」というのとは、全然次元が違うところでの、「すみません」ということになるわけでございますね。
 
平井:  「ありがとう」とか、「すみません」という言葉は、日常茶飯事に使っているわけですけれども、「一個の非を訂正する」ということが要でありまして、ただいたずらに頭をさげて、「すみません」と言って済ます場合、何にも訂正が起こってこないような「すみません」が本当の「すみません」でありませんからね。
 
金光:  「すみません」というのは、たしかにおっしゃるように、しょっちゅう日本では、日常生活で、「すみません」ということがよく出てくるわけですが、これが例えばアメリカで交通事故なんかに遭ったりした時に、「絶対にすみませんと言うな」と。言うと向こうが悪くても全部こちらの罪、こちらが悪いことにされてしまうようなこともよく聞くわけですけれども、むしろ自分が多少悪いところがあっても、自分の正しさを主張しろ、というような話も聞くわけですが、そういう次元の話とは違う。要するに相手が無理を言っている時にも、「すみませんと頭をさげる」というような次元での「すみません」とはまったく違うわけでございますね。
 
平井:  「すみません」と下手に言いますと、「相手が正しい」と思ってしまうんですね。
 
金光:  向こうの方がね。
 
平井:  はい。「自分の行動を訂正すれば、それがもうすみません」ですから、ベタベタと頭を下げたり、「すみません」と言って、「向こうの言いなりになる」必要はない。
 
金光:  そうすると、下手にいうと向こうが間違っている場合には、間違いを助長するような場合もあるわけでしょうから、そういう時にはいつでも「頭をさげろ」という意味ではなくて、向こうは向こうで自分の非を訂正して貰えればいいわけだし、先ほどの「もとはこちら」の場合からいうと、「自分の非は自分の責任で訂正する」という、そういう意味での「すみません」ということになるわけですね。
 
平井:  そうです。
 
金光:  しかし、今はわりに、「すみません」と、例えば注意する場合も、素直に注意を受け付けて貰えればいいですけれども、下手に注意すると、かえって暴力を振るわれたり、向こうの方が明らかに道理に合わないような態度をとる場合もありますけれども、そういう時には「すみません、という必要はない」ということにもなるわけでございますね。
 
平井:  まあ「すみません」とあまり心安く遣いすぎると、「謝られた方が、自分が正しい」と思ってしまうんですね。それで被害者ということで、上座からかかってくるというようなことをいうているわけじゃないんです。
 
金光:  そういう摂理に如何に忠実に生きるか、と。そういうところでの「すみません」であり、それから「ただありがたく」であり、それから「そのままぜんぶあたりまえ」というような、そういうそのもとにあるのは、「自然のルール」と言いますか、「神さまの摂理」と言いますか、そういうものを踏まえたうえでのお言葉ということになるわけでございますね。
 
平井:  そうですね。「自然の摂理には盲従する」と。或いは「人の道というものに適っていく」ということ。こういうものを一つの尺度として、「ありがとう」と「すみません」があるわけですから。
 
金光:  訂正というのは、正しく改めるわけですけれども、その「正しさ」というのは、その基本は?
 
平井:  これはやっぱり難しいですね。「正しい」って、「どういうことを正しいんや」というても「正しさ」ということと、「間違い」ということの考え方によって違うわけですね。
 
金光:  先ほどからのお話を伺っていると、いわば「自然のルール」と言いますか、「自然の摂理」と言いますか、「それに従っているのが正しい」と言いますか。
 
平井:  だから「正しい」と思うことは、一遍訂正していて、その道を歩んでみる、と。そしてまた壁がでてくるようだったら、問題が起こってくるとか、壁が現れてくるようでしたら、その訂正の仕方に何か問題があったんではないか、ということをもう一遍省みる。そして訂正をする。訂正をした道を歩んでいく。その繰り返しが一つの人生じゃないでしょうか。
 
金光:  そうですね。そうすると、仏教の言葉でよく「無我(むが)」という「我なし」と。「無我」という言葉を遣いますが、今の「もとこちら」という言葉の世界は、「無我の世界」と共通のところでございますね。
 
平井:  共通というよりも一緒のことなんですね。
 
金光:  一緒ですね。
 
平井:  私はそういう難しいことはわかりませんですけどね。
 
金光:  ただ、それをいわば主体的にいいますか、自分の責任で、自分の行動で表現なさると、「もとはこちら」という言葉になるわけでございますね。
 
平井:  そういうことです。
 
金光:  そうすると、「もとはこちら」というのが、本当の受動的な意味でなくて、ほんとに「自分の責任で、自分が適応力を広げて、しかも欲望のコントロールできる主体であって」ということになってきますと、非常に積極的な生き方という。
 
平井:  もの凄い積極的な生き方ですし、そういうことをズーッと体験をして、また坐禅とかそういうことをやりますと、「見性」というところに非常に早く近くへいけると思うんですね。
 
金光:  「見性体験」の「見性」ということでございますね。「本来の自分に目覚める」と。
 
平井:  ええ。
 
金光:  その辺のところを表現されたのが、「もとこちら」と、一言で、平井流に集約されると、「もとこちら」ということになるわけでございますね。
 
平井:  ええ。
 
金光:  どうも今日はありがとうございました。


2010/08/10(Tue) 22:05 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
簡単には答えをだしてはいけないよ
ひろぼうさんにもどのようにコメントすればよいか、
「簡単には答えをだしてはいけないよ」と言うしか
ないようです。

いままでのろくろくであれば、ひろぼうさんのコメ
ントに、偉そうなことをあれこれ言っていたことで
しょうね。

ひとことヒントを言えば、
これは、学校のテストみたいに正解を丸暗記すれば
良いというものではないということです。

2010/08/10(Tue) 21:32 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
まてまて やまんばさん
簡単には答えをだしてはいけないよ。

前々回だったか「桜の精」でやまんばさんには
ちょっと 揺さぶりをかけましたから、
面白いことになってきましたね。

今までのやまんばさんであれば、わけもわから
ないままに思いついたことをそのままにコメント
していたでしょうね。

そうです。
「簡単には答えをだしてはいけないよ」です。
慎重にしないと、また混乱してしまいますからね。

やまんばさんはとても大切なところにさしかかって
いるのだと思います。

2010/08/10(Tue) 21:08 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
他人と自分

他人と自分は鏡だから、境界はあります
ただお互いに映し出された魂の姿は相手が自分ですから、全てが学びとなります
私も全ての生き物と人々と根底で繋がり合って生きている。

全ての生きとし生けるものは、一つの生命体の一部だと認識しています。

その中で『私が』『私のもの』『責任は外にある』と主張したら自然に全てが歪んできます。

境があるか無いかを考えないで、やまんばさんは、ありのままのやまんばさんを生きれば良いと思います♪やまんばさんが楽しいなら人々も楽しく成りますよ♪
やまんばさんが悲しいなら周りは静かにそっとしてくれるでしょう。

どうか、大安心して 頭を空っぽにして、やまんばさん自身のまんまでいて下さい
何も、何一つとして 貴女を変えようと努力する必要はありません。自然にありのままのまんまで、自然に自然に変わっていきますから…

間違いは必ず正して頂けるし、必要な事は自然に与えて下さいます。それは外からでなくて、自身が正し与え導いているのですよ

何の努力もなく、自然にしたいように、していれば、自然に成りたいように成っています。但し、時と夢は信じ合っていますから、その時を自我や慢心で自分でなんとかしようとすればするほど、時はドンドン逃げていきます。状況もドンドン逃げていきます。
全てを自身にお任せした時にやってくるように思います。

失敗を恐れなければ、おもうがままに…ありのままに行動して正確なんです♪☆
表裏一体のごとく、自他共に一体だと思います。それが心と呼ばれているもの。
自分だけのつもりが実はみんな同じ時代に生きる者として、おんなじような事を感じながら生きている一つの生命体のように私は思います。
ろくろく先生、間違っていますか?

やまんばさん。生意気な意見をお許し下さいm(_ _)m
2010/08/10(Tue) 14:19 | URL  | ひろぼう #2ySkFsy6[ 編集]
ろくろくさん、ひろぼうさんへ
やまんば、コメントしたいのですが、またまたつまずいています。どこにつまずいているのかさえいまだはっきしません。
ただ漠然と固まっている状態です。

「自分」と「他人」との境界ってあるのだろうか???かすかに現れてくる疑問。
まてまて やまんばさん、簡単には答えをだしてはいけないよ。
2010/08/10(Tue) 12:50 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
解放

『私のもの』『私が』を手放し『もとはこちら』と常に思えたら、心が完全にあらゆる出来事から解放され平和な気持ちで過ごせますm(_ _)m
ろくろく先生は不思議な位、素晴らしいタイミングで素晴らしい叡智を教えて下さいます☆

当たり前の事が、まだまだ分かっていない ひろぼうです
やまんばさん♪
確かに桜は悲しい場面に似合うから、陰なのかもですね…。
『良く出来ましたマーク』の桜は圧倒的に陽ですよね。

一つの物や事の中に陰陽は共存しているように思います。まさに表裏一体ですね
陰陽の要素のバランスで作品は左右されますよね。

桜って『生』の喜びと『生』の儚さ=死を両方表現しています。
お花見も素敵ですが桜の紅葉の美しさも皆様に是非見て欲しいです。


2010/08/10(Tue) 09:52 | URL  | ひろぼう #2ySkFsy6[ 編集]
ただ存在する

日々、過ちを犯し、後悔し、嘆き、不安がり、幸せを求め

紆余曲折しながら四苦八苦しながら生きていますが…

ただ生きている
ただ存在している
その奇跡を常に感謝 していたいです。

3秒で解決する方法を実践し続けて生きてる限りは大丈夫☆
2010/08/09(Mon) 12:15 | URL  | ひろぼう #2ySkFsy6[ 編集]
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