2010年04月01日 (木) | Edit |
岸田秀著「ふきよせ雑文集」文芸春秋より(3)


人間のある男がある女の愛を得ようとする場合、
その方法は無数にあり、
唯一の正しい口説き方といったものはなく、

したがって、男は自分が選んだ口説き方が
果たしてよかったかどうなのかと絶えず
不安に駆られ、

口説いているあいだ中、これでうまくいくか
どうか絶えず緊張していなければならない。

そして、失敗したとすれば、
それはその男個人の失敗であり、
うまくやれば成功したかもしれないのに、
その可能性をみずからつぶしたのである。

あるいは、そもそもはじめから全然口説ける
可能性のない女なのに、それがわからず
愚かにも相手を選び間違えたからである。

雄が雌を獲得するのに失敗しても、
それは雌が得られなかっただけのことであるが、

男が女を口説くのに失敗すれば、
単に女が得られなかったというだけではすまず、
男の自我が傷つき、動揺する。


panda


男の男としての自我は女に男として承認され、
愛され、求められ、女との関係において男として
ふるまうことによって成りたっているのだから、

言いかえれば、男の内部に男としての自我を
支えるものは何もないのだから、
口説いた女にふられれば、

自分が男であることを否定された同じで、
したがって、男が女を口説こうとするときに
緊張を強いられるのは当然である。

・・・・・・
同じようにわれわれは入学試験で緊張し、
入社試験で緊張する。

試験を受けて合格するという行動様式が
本能に書き込まれてないことは確かであって、
われわれは必死にがんばって

合格という結果をもたらすべき不自然な
行動様式をとらねばならないからである。

同じくスポーツ選手は試合に臨んで緊張し、
芸人は舞台で緊張し、
講師は聴衆を前に緊張する。

みんな、本能に書き込まれてない不自然な
行動をうまくやろうとするからである。


自我が観察する自我と観察される自我に
分裂するのは、本能が壊れているために
自分で自分の行動を選ばなくてはならない
人間の宿命であるが、

不自然な行動をうまくやろうとするときには、
当然のことながら、この分裂がひどくなる。

自我が自我のめざしている目標のほうに
注意を向けるだけでなく、
目標をめざしている自我自身をも観察し、
観察される自我を支配しようとするからである。

つまり、自我の注意の対象が目標と
自我自身との二つに別れ、
過重な注意を要求されることになる。

それゆえ、緊張状態が持続すると疲れるのである。
ときには、注意が自我自身だけに偏りすぎ、
目標がおろそかにされることがある。

いかにうまくやるかだけが問題となり、
目標が忘れられる。緊張しているとき、
われわれがよく失敗するのはそのためである。


ライオンがシマウマを追っかけているとき、
シマウマに注意を向けないで、自分の体を
いかに動かせるべきかを考えていれば、
シマウマに逃げられてしまうであろう。

ライオンは決してそのような馬鹿なことは
しないが、自我を持つ人間はしばしば
その種の失敗をする。

自我を持つ人間は、
何よりもまず自我の維持こそ関心事なので、
目標は二の次になってしまうのである。


ふき寄せ雑文集 (文春文庫)ふき寄せ雑文集 (文春文庫)
(1997/05)
岸田 秀

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次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
わたしもからっぽなの
空気人形はかげろうと同じく「わたしもからっぽなの」と
言います。仏教のお坊さんは頭にいっぱいのお経を詰め
込んで、朝も早くから夜遅くまで修行に励みます。

修行っていうのは何をしているかと言いますと、「空」の、
つまり「からっぽ」の心境を体得するのだというのです。

やまんばさんも当初は、なんにも知らない人なんかではなく
頭の中に沢山の常識が詰まっていた、ごく普通のお母さんだ
ったのではないでしょうか。

いま「幸せに生きる」ことは少し上手になったなあと思うよ
うになりました。と仰っていますが、それは
「分かったつもりの気持ち=先入観」を外して物事に対処す
る事が出来るようにもなられたということではないでしょうか。

こどものようにからっぽのこころで、分からないことを恥ず
かしがりもせず現実に直面していく時、いままでにない仕方
で物事が解決して行くのをまのあたりにしていらっしゃるの
ではありませんか。

「やまんばはますますわからなくなっているのです。」
ということは「からっぽ」の心境を体得することが出来はじ
めているということでもあると思うのです。

もっとも、いつでも「からっぽ」の心境でいればよいのでは
なく、常識とからっぽを使い分けることが大切だと思います。


2010/04/05(Mon) 13:22 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
なんにもわかっていない^^^^^
ろくろくさんと真反対ですね^^^

だからこそ、ここでお会いしたのかもしれませんね。

しかし、やまんばはここで学びながら、こう思うようになったのです。

やまんばは確かになんにも知らない人だけど、お陰さまで 「幸せに生きる」 ことは少し上手にな

ったなあと思うようになりました。

もちろん、知らないより知っている方が、自分のため、また人を理解するためには必要なこ

とだと思い、やまんばにとって、学びは遅いでしょうが続けていかねばならないと思っています。

だけど、その学びを通じて、実際に自分の抱えている問題を見つけ、解放されたり、許せなかった

人を許せるようになったり、人を大切にするようになったりと人との関係を改善していかねば、何に

もならないのだと気がつくようになりました。そのようなことができなければ、やまんばの学びは

無に等しいのだと思います。

これからも自分や人々を見つめながら、自分がどのように生きればよいのか見つけ、実行したい

と思っています。

今後とも、どうぞ、よろしくお願いいたします。

それと、ろくろくさんのコメントの「男としての不変の自我」というものはあるはずもない・・・・

やまんばもそう感じていましたので、安心しました。質問に丁寧に答えていただき、ありがとうござ

いました。









2010/04/04(Sun) 09:33 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
男としての自我
男性性も女性性もそれぞれの民族性、国民性、県民性及び各家族の中での育てられ方によって違っているのですよね。ですから不変の「男としての自我」というものがあるはずもない。


民族性を例にあげるとれば・・・

様々な民族の人が乗った豪華客船が沈没しそうになる。
それぞれの乗客を海に飛び込ませるには、どのように声をかければいいか?

・ロシア人には、海の方をさして「あっちにウォッカが流れていきました」と伝える。
・イタリア人には、「海で美女が泳いでます」と伝える。
・フランス人には、「海に飛び込んでください」とフランス語で伝える。
・ドイツ人には、「規則ですので飛び込んでください」と伝える。
・アメリカ人には、「今飛び込めば貴方はヒーローになれるでしょう」と伝える。
・日本人には、「みなさん飛び込んでますよ」と伝える。


世界的な音楽コンクールにおいて

 開始1時間前にドイツ人と日本人が来る。
 30分前、ユダヤ人がやって来る。
 10分前、アングロサクソンが現れる。
 開始時刻丁度にスラブ系が間に合う。
 5分遅刻して、フランス人がすべりこむ。
 15分遅くイタリア人が出現。
 30分以上たってからスペイン人がようやく現れる。
 ポルトガル人がいつ来るのか誰も知らない。 


なんとなく当たっているところがありますよね。

ユダヤ人の男が集まって、それぞれの国の暮らしを話題にしている。
ある男が、「世界で最も幸福な男は?」と聞くと、
「アメリカの家に住み、イギリスの服を着て、中国の料理を食べ、日本の女を妻にした男だ」
と答えが一致する。逆に、最も不幸な男は?と聞くと、
「日本の家に住み、中国の服を着て、イギリスの料理を食べる男だ」
と答えが一致する。じゃあどこの女を妻にしたら不幸なんだ?と聞くと、全員が声を揃えて
「アメリカ女に決まってるじゃないか!」
と言った。


ゲゲゲの女房みたいにノッポはだめで、従順で大人しく我慢強い、
そうした女性が世界的に好まれているようですが、
実際は違うと思いますけれど・・・
というかそんな女性は地球上にいません。

まあ、男性に関してはやまんばさんのご主人をよ~く観察
されることだと思います。

それと「やまんばはますますわからなくなっているのです。」
ということに関してはとてもいいことだと思います。

なぜなら、やまんばさんは今まで分かってもいないのに
分かっていると思い込んでいましたからね・・・・・
分からないので正解です。




2010/04/03(Sat) 18:38 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
おはようございます。
これはこれは謎だらけです。

まず、「男としての自我」とはなんだろう?その自我を、もともと支えるものは何もなくて、女との関係の中で、男として承認され(????男として承認されるって、どういうことだろう????)成り立っている。・・・・・と書かれています。ろくろくさん、よかったら、わかりやすく答えていただけませんか?

男とか女とかに限らないでよいなら、やまんばはこういう風に思うのです。

友達にしても恋人にしても夫婦としても、その関係がなくてはならないと感じるのは、自分の中に何か欠けているものがあり、その欠けた部分を相手が持っているのではないかと感じるのではないかと思うのです。

相手はそれ映し出す鏡のようなもので、本当はその欠けた部分を自分で満たしていかねばならないのだけど、相手が満たしてくれるものだと、勘違いして相手から離れられなくなったり、求めすぎて嫌がられたりするのではないかと、やまんばは思うのです。

「本能が壊れている」などむつかしいことはやまんばにはわかりませんが、相手が自分の欠けた部分のバロメーターのようになって、満たされるまで、共にいるのではないかと思います。
問題はどちらかがが満たされたあと、まだ相手が自分を必要としているときです。
その時は勝手に離れたりせず、相手が満たされるまで、とことん待つ・・ことが思いやりということなのかなあと思うのですが、まちがっていますでしょうか?


なににしても観察していると、人間ほど不可解なものはなく、それゆえに人間ほど魅力的なものはいないのではないかとおもわれます。

今、桜のスケッチをしていますが、一つずつみていると、法則があることがわかります。桜の木にはチューリップはつかない。裸婦をスケッチしていると、少々形に差はあるけど、だいたいみんな同じところに同じものがついており、それなりに美しい。それなら、裸で外を歩いてもよいのではないかと思うけど、なぜ、恥ずかしいと思うのだろう?犬がパンツをつけているのを、みたことがない・・・・

やまんばはますますわからなくなっているのです。
ときどき、本当にむつかしくて、人間から逃げたくなるのですが、残念なことにとてもさみしがり屋なので、逃げ切ることも出来ず、周辺をうろうろうろうろしているのであります
2010/04/03(Sat) 09:01 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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