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2006年05月03日 (水) | Edit |
ひろさちや著「自分がみえてくる人生講座」
ー幸福になる仏教の考え方10ー PHP研究所 より (6)


種明かしをしよう。
遠い異国への旅ーーとは、死後の世界への旅立ちである。
男は死んで、あの世に往く。

一緒について来て欲しい・・・・・・と、第一夫人に頼んだ。
第一夫人とは、「肉体」である。
わたしたちの「からだ」である。

「寒い」と言えば着物を着せ、
「おなかがすいた」と言えばご馳走を食べさせた、
わたしたちの肉体、身体。


しかし、その「からだ」は、
わたしたちがあの世に往くときには、一緒に来てくれない。
「あなただけ往ってください」と、つれなく断られる。

第二夫人は、「財産」である。
肉体と同様に、肉体と負けず劣らず溺愛した財産。

ときには、金のためにからだに鞭打って働かせて
つくった財産。でもね、その財産をわたしたちは
あの世に持っていくことはできない。

第三夫人は、仏典の記すところによると、
「親類縁者や友人」である。妻(夫)や子どもも、
もちろんこの中に入っている。

わたしが死ねば、彼らは野辺の送りはしてくれる。
でも、そこまでだ。

そこから先は、われわれは一人で
往かなければならない。その意味で、
人間は本質的に孤独なのである。

さて、最後に第四夫人である。第四夫人とは何か?
仏典は、それを、「心」だとしている。
しかし、これはちょっと問題である。

というのは「無我」の教えと、ここのところは
矛盾しそうである。けれども、これは寓話である。
そして、この説話がわれわれに教えたいことは、

われわれにとって本当に大事なものは、
われわれの「心」(第四夫人)である。
それなのに、普段われわれはその「心」を忘れて、

財産(第二夫人)を大事にしたり、肉体(第一夫人)の
心配ばかりしている。あるいは、妻や子どものこと
ばかり考えている。それは愚かなことだ。

目を覚ませ。といったことである。
あまり細かな穿鑿(せんさく)はやめて、
これを一つの教訓話と受け取っておくことにしょう。

・・・・・・
まず、われわれは、「財産」を
自分の所有物だと思っている。
これは大きなまちがいである。

第二に、「子ども」が自分のつくった子だと
信じている。これもおかしい。これらのものは、
わたしたちはほとけさまからお預かりしているのである。

第三に「肉体」。わたしたちの身体・肉体を、
われわれは自分のものだと思っている。
本当にそうであろうか・・・・・・?

「ノー」と、わたしは答えたい。
わたしたちの肉体・からだもほとけさまから
お預かりしているものである。わたしはそう考えている。

第四に、身体や財産・子どもを預かっている側の「自分」。

この意味での「自分」を、四人の妻を持った男の話では、
「心」と呼んでいるが、むしろわたしは「自分」と
呼んだほうがいいと思う。

その、身体や財産をほとけさまから預かっている「自分」
は、いったいどういう存在か?

わたしは、その「自分」もまた、
ほとけさまからの預かり物だと考えている。
つまり、こういうふうに言えばいいーー。

わたしたちは、まず、それぞれの「自分」を
ほとけさまからお預かりしている。
それが「無我」の意味だ。

自分が独立して存在しているのではなしに、
ほとけさまからお預かりした「自分」だから、
「無我」なのである。

この、ほとけさまからお預かりした「自分」が、
さらにほとけさまからお預かりした物がある。
それが肉体であり、財産であり、子どもである。

したがって、こちらのほうは
二重のお預かり物なのである。


次回につづく


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