2010年02月01日 (月) | Edit |
ラマナ・マハリシと同様に繰り返し読み直してみたくなる本に
クリシュナムルティがあります。

今回は2007年6月2日~当ブログに掲載させて頂いたクリシュナ
ムルティの「瞑 想」を再掲載させて頂くことにしました。
三年前よりはより深く理解できるのではないかと思います。


愛が炸裂すること
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(1)


瞑想のなかにある心(マインド)は静かです

それは 思考でとらえられる静けさではありません

おだやかな夕ぐれどきの静寂ともちがいます

それは思考が

その表象 言葉 知覚のすべてとともに

すっかりやんでしまうときにおとずれる静けさです

瞑想瞑想
(1998/06)
J.クリシュナムルティ

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このような 瞑想のなかにある心こそ

宗教的な心です

宗教とは

教会や寺院のなかで

ふれられるものではありません

また 聖なる言葉を詠唱することによって

ふれられるものでもありません

宗教的な心というのは

愛が炸裂することです

この愛は

どんな分離も知りません

愛にとっては

遠くも近くもないのです

一も多もありません

愛という状態のなかでは

すべての分裂がなくなります



愛もまた美とおなじように

言葉であらわされるものではありません

このような静けさをとおしてのみ

瞑想的な心は はたらきます


次回につづく

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コメント
この記事へのコメント
本当の道の初めにあるもの
ここのところ十牛図三昧の日々を送っている
ろくろくでありますが、いま読んでいる上田
閑照著「十牛図を歩む」(この方は京都大学の
宗教哲学の教授だった方です)の尋牛の説明の
中で、

(道は)単純に求めて与えられるというものでは
ないんですね。・・・・・のびてしまうというと
ころまで求める。そしてのびてしまった、と。
そこまで含めて第一の段階というわけです。

すなわち、自力が尽きるということが、本当の道
の初めにあるということです。つまり倒れるとこ
ろまで求める。そういうところが非常にはっきり
出ていて、感銘します。

やまんばさんも、ろくろくと同様に今「尋牛」の
ところにいるのかもしれません。



2010/02/02(Tue) 19:59 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
おはようございます
やまんばは「余命一年・・・2」のコメントから、まだ一歩もすすめずにいます。

何かわかるまで、もしくは飽きるまで、はたまたその雲が勝手に去ってしまうまで、しばらくそこに留まります。

何か言葉の上だけでわかったつもりでいたものが、バラバラと崩れていく感覚です。

でもそれは私自身ではなく、私だと思い込んでいたものらしい・・・・・・・(この部分はブログの掲載を読んで、なんとなくそう意識付けられているだけで、本当にわかったことではありません。)
2010/02/02(Tue) 07:55 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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