2006年05月02日 (火) | Edit |
ひろさちや著「自分がみえてくる人生講座」
ー幸福になる仏教の考え方10ー PHP研究所 より (5)


ひとつ、仏教寓話を紹介する。
『雑阿含経』に出てくる話である。
あるところに、四人の妻を持っている男がいた。

彼は、第一夫人をまるで自分自身のようにかわいがり、
いつも第一夫人と一緒にいた。

第一夫人が「寒い」と言えば、あたたかい着物を着せてやり、
「おなかがすいた」と言えばご馳走を食べさせてやった。
この第一夫人と、彼はいちども喧嘩をしたことがなかった。

第二夫人への愛情は、第一夫人とはやや違った。
といっても、第二夫人についても彼は溺愛し、
ときには第二夫人のほうをよりいっそう愛している
かのように思えることもあった。


第三夫人とは、彼が会う回数は少なかった。
第一夫人とはベッタリ四六時中一緒にいるが、
そして第二夫人ともよく一緒に暮らしていたが、

第三夫人とはそれほどベッタリではない。
しかし、たまに出会ったときは彼はこれを歓待し、
ご馳走を食べさせ、いろいろと世話を焼いた。

ところが、第四夫人に関しては、
彼はほとんどその存在を忘れていた。

じつをいえば、第四夫人はいつも夫の傍にいて、
静かに夫を見守っているのであるが、
夫のほうは彼女の存在を意識することなく、
うっちゃっていたのである。


さて、この四人の妻を持った男が、あるとき、
遠い異国に旅することになった。いや、
旅というより、移住というべきであろう。

彼はその異国に行って、たぶん再び自国に
帰って来れないのである。

そこで彼は、第一夫人に頼んだ。
わたしと一緒に異国に来てくれないか・・・・・・と。

「あなた、わたしはこの国で、あなたが贅沢を
させてくれるから一緒にいるのですよ。
そんな見知らぬ国に行って、あなたと一緒に

苦労するなんて、わたしはイヤですワ。
どうか、あなた一人で旅をなさってください・・・・・・」
第一夫人は、にべなく彼との同行を拒否した。

(あれほどかわいがってやったのに・・・・・・)と、
男は思わないでもなかったが、(まあ、いいさ。
第二夫人がいるんだから・・・・・・)と考えて、

次に第二夫人に同行を求めた。
けれども、この第二夫人も彼の要請を断った。

「第一夫人が同行を拒まれたのでしょう・・・・・・。
それなら、わたくしだってお断りしますワ。
わたくしは第二夫人なんですもの・・・・・・」

そこで、仕方なく、男は第三夫人に声をかけた。
すると、第三夫人はこう言った。

「そうですか、第一夫人も第二夫人も断られたので
ございますか・・・。お気の毒に存じます。では、わたくしは、
国境付近まではお見送りをさせていただきます。

しかし、そこから先は、どうかあなたお一人で
行ってくださいまし。異国の地までは、
とてもわたくしもご同行はできませんもの・・・・・・」

そのときになって、男は第四夫人を思い出した。
普段は忘れているくせに、自分勝手な男である。
そこで、(ひょっとしたら・・・)と思って、

男は第四夫人に同行を頼んだ。
「はい、わたくしは、あなたが行かれる所であれば、
どこまでも一緒にお伴をさせていただきます。

遠い異国の地であっても、わたくしはついてまいります。
あなた、どうか一緒に連れて行ってください」
男は喜んだ。喜んで第四夫人と一緒に異国に旅立って行った。

そういう話してある。
いったいこれが何の寓話か、
読者にはお分かりになりますか・・・・・・?


次回につづく


↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。

にほんブログ村 哲学ブログへ人気blogランキング精神世界 ランキング

スポンサーサイト
テーマ:哲学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
錬金術者さん
あなたの博識には、いつも圧倒されてしまいます。

ろくろくは役得で、あらかじめ答えを知っている?
場合もありますから、理解しやすい点もあるのですが
錬金術者さんの場合は、ろくろくが提供した資料だけで
洞察するのですから、おみごととしかいえません。

「あらかじめ答えを知っている」といっても、
禅の公案のように、答えが無数にあるというか、
生き方そのものを問いかけてくるわけですから
かえって、知っていることが邪魔になったりするのです。

今回の「四人の妻を持った男の話」にしても、
神秘学(シュタイナー?)から読み解いて行くという
芸当はそう簡単にできることではありません。

経過はともかくも、最終的には帳尻があうというか
答えになっているのが、とても面白いです。

ひきつづき、よろしくお願いします。

2006/05/03(Wed) 10:36 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
言葉足らずですいません
 現世では、始終、起きているいわば生の意識とともにいて、肉体を感じないときはないです。
→現世で、起きているときの生を意識するときには、始終付き添っているという意味です。
 人間(男女共に)は、皆、第4夫人(愛人)をもって生まれてきているのですが、第1夫人しか感じることがありません。それは、あまりに、第1夫人しか頭にないからです。起きているときしか記憶がないのもそのせいです。寝ているときには、第3夫人と第4夫人とともに、異国の地の国境付近まで、旅行しているといわれています。このような寓話があるということは、古の人は、実は異国の地の存在をも知っていたのです。
2006/05/02(Tue) 16:52 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
禅は非常に面白いお話ですね。
恐らく、倩女のお話は、魂と肉体のどちらが本物の自己であるかという問いだと思います。そして、魂と肉体が、最後に合体した姿が、自己の理想の形だと思います。魂も肉体も、真の自己を造るための道具といえましょう。魂と肉体の真の協調性があってはじめて、統一した自己となれるわけです。
 健全な精神には健全な肉体が宿るとギリシア時代語られていましたし、文武両道は、武士道の模範でした。
 お釈迦さまは、現世(功利)=肉体(愛欲)にばかりかまけていると、魂のことを忘れてしまうぞと言ったのだと思います。また、この逆の肉体を疎かにしては、魂の修行にもならないことも問題です。肉体を他への奉仕の道具とすれば、魂も同時に磨かれてくるのですから…。
また、4人の妻のお話は、人間の4つの人体のことを意味しているのだと思います。神秘学では、4つの人体を、肉体(からだ)、エーテル体(いのち)、アストラル体(こころ)、自我(わたし)という言葉で表しています。
 第1夫人は、現世での肉体(からだ)です。現世では、始終、起きているいわば生の意識とともにいて、肉体を感じないときはないです。
 第2夫人は、エーテル体で、これも、肉体とともにいて、現世では、いのちの源で、肉体を育むいわば「気孔」で、東洋医学では、よく知られたものです。
 第3夫人は、アストラル体で、これも、現世で、人間の起きているときは、肉体とエーテル体に付き添っているのですが、日頃、意識することはありません。唯物論では、その存在さえ否定されています。「こころ」の存在は、科学では物質的に証明できません。せいぜいニューロンがネッワークを形成することでしか解釈できません。
 そして、第4夫人こそ、現世では、認識されていない自我のことです。ここでいう夫は、その自我の源である、霊我というものです。霊我は自我の一部を成していますが、いまだ未開発なものです。結婚し、愛情を育むことで、夫と第4夫人は一体となります。
 つまり、遠くへ旅立つとは、この世(現世)から、あの世にいくことで、それに付き従うのは、第4夫人の自我だけしかないということを暗示しているのでしょう?
 第1~3夫人は、皆、霊我とは離れてしまいます。肉体は死んですぐ、エーテル体は、死んだあと、一週間で離れます(初七日)。アストラル体は、約2ヶ月(四十九日)で離れるというわけです。仏教のお葬式はこれに準じているようです。
 最後まで残るのは自我の部分です。つまりこの世でおこなった体験(修行)のエキスです。
2006/05/02(Tue) 16:41 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック