2009年10月03日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(7)


23 解脱を願う者にとって、本を読むことはどんな価値が
あるのでしょうか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねば
ならないと説いている。だから、すべての聖典の結論は、
心を静かに保つべしということである。

ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読み
続ける必要は何もない。心を静めるために、人はただ、
自分自身の内に自己とは何かと問いつづけるべきである。

聖典を読むことによっては、この探究はできない。
人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない。


ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡
(2006/07)
アーサー オズボーン

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自己は五つの覆い(五つの感覚機能、視覚、嗅覚、聴覚、
味覚、触覚)の内側にあるが、書物はその外にある。

自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって探究されるべき
ものだから、それを書物の中に求めることの愚かしさは、
言うまでもない。

やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。


24 幸福とは何でしょうか?

幸福は、自己の本性そのものである。
幸福と自己は別のものではない。
世界のいかなる対象物の中にも幸福はない。

私たちは無知のゆえに、
対象物から幸福を得るものと思っている。
心が外に出てゆくとき、悲惨を味わう。

心の願いが満たされるときには、実は、心は自身の本来の
場所に戻っており、自己である幸福を楽しむのである。

同じように、眠りの状態、サマーディ(三昧)、失神状態、
あるいは願った対象物が得られたとき、嫌いな対象物が
消え去ったときには、心は内面に向かい、清らかな自己ー
幸福を楽しむのである。

心は、このように休むことなく動きまわり、
自己から外へさまよい出てはまた元の場所へ帰ってくる。
外では太陽が焼け焦げているが、木陰は気持ちがいい。

灼熱の太陽の中を歩いてきた人が、木陰に宿れば涼しいと
感じる。木陰からわざわざ太陽の下に出てゆき、また木陰
に戻ってくるのは愚かなことである。賢い人は、ずっと
木陰に宿りつづけるだろう。

そのように、真理を知った人の心はブラフマンを離れない。
無知な心は、その反対に世界をさまよい歩いて悲惨を味わい、
つかの間の幸福を味わうたてにブラフマンに帰ってくる。

実際には、世界と呼ばれているものはただの想いである。
世界が消え去り、想いが消え去れば、心は幸福を経験する。
世界が現れると、悲惨の中を行く。


25 洞察力とはなんでしょうか?

静寂にあることが、洞察力と呼ばれているものである。
静寂にあるということは、心が自己に溶けていることである。

過去のできごとを知ったり、現在や未来のできごとを知る
テレパシーや千里眼のようなものは、洞察力ではない。


26 無欲と智慧にはどんな関係があるでしょうか?

無欲が智慧である。二つは別のものではない。
それは同じである。

無欲とは、心がどのような対象物に向かうことも差しひかえる
ことである。智慧とは対象物が現れないことを意味している。

別の言い方をすれば、自己以外の何ものも求めぬことが無執着、
あるいは無欲であり、自己をけっして離れないことが智慧である。


27 自己探究と瞑想の違いは何でしょうか?

自己探究とは、自己の内に心をとどめておくことである。
瞑想とは、自分の自我をブラフマン、つまり、存在ー意識ー至福
であると思いなすことである。


28 解脱とは何でしょうか?

束縛されている自我の本性に尋ね入り、
その真実の本性を悟ることが解脱である。



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
気づきが自己なのです
感情(+思考)がつぎつぎと湧いてくる

心が感情(+思考)に引っ張られていく 過去に行ったり 
未来に行ったり ああでもない こうでもないと際限もなく 
旅をする。

「これは心が自己の外に出ている状態です」

心は、このように休むことなく動きまわり、
自己から外へさまよい出てはまた元の場所へ帰ってくる。
外では太陽が焼け焦げているが、木陰は気持ちがいい。

「やまんばはそれに気づく」
ここのところはとても微妙なところです。

感情(+思考)に引っ張り回されているのがやまんばさん。
それに気づくのは自己です。

「やまんばさんに気づく」のです。




気づきが自己なのです。





自己は「見る、匂う、聞く、味わう、触れるといった五感」の内側に
ある。自己は五感をはぎ取ることによって探究される。
では、五つのおおいをはぎ取るにはどうすればいいのだろうか?

「生じてくる一切のもの(五感+思考+感情)を絶え間なく、注意深く、
見守る」こと。

批判も判断もなく、ただ、それをあるがままに見守っているのが自己。



2009/10/05(Mon) 21:27 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
感情
感情がつぎつぎと湧いてくる

心が感情に引っ張られていく 過去に行ったり 未来に行ったり ああでもない こうでもないと際限もなく 旅をする

これは心が自己の外に出ている状態なのですね
*****たしかに「悲惨」を味わっている******

自己といわれる「基地」と、糸で結ばれている風船が切れて、そこら中をさまよっているのに似てる

やまんばはそれに気づく

感情が湧く .…… 
 
心がそれに引っ張られて動き始める

涙がでたり、笑ったり さみしくなったり がっかりしたり 喜びに満たされたり

忙しく 絶え間なく 変化している

やまんばはじーーーーーと、それをみる。

見るということは 自己とつながっているということ
自己の内に在るということ

そういうことなのですね。

批判も判断もしないで ただ、それを見守り続けていけばいいのですね・・・・・・・***・・・・**・・*
批判や判断、感情・・・・・これらは過去からやってくるようだ・・・・・それらは自己ではないのですね


*「自己は五つの覆い(五感)の内側にあるという  
 自己は五つの覆いをはぎ取ることによって探求されるのだという。
 五感を絶え間なく、注意深く、見守る」*
2009/10/05(Mon) 07:58 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
忍耐
一般的には、
「苦難などをこらえること。耐え忍ぶこと。がまん」
といったところが忍耐の意味です。

ところがスティーヴン・レヴァインは、まったく違う
捉え方をしています。

忍耐とは、欲望がたえず生み出している焦燥感、
充足を待ち望むいら立った心とはまったく別種のもの
だという。ゴールを目指すためのやせ我慢とか辛抱で
はなく、

「生じてくる一切のものへの絶え間ない注意」なのだ
という。

私たちにはとても分かりやすいですが、一般的には
理解することはとても難しいかもしれません。


自己は五つの覆い(五感)の内側にあるという。
自己は五つの覆いをはぎ取ることによって探究される
のだという。五感を絶え間なく、注意深く、見守る。

「静寂にあることが、心が自己に溶けていることである」
ステキな言葉ですね。


2009/10/04(Sun) 20:40 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ゆうべは満月でしたね^^
おはようございます。

今日のブログの内容は言葉をそのまんま食べてしまいたかったです。

{今日の言葉} も  なるほどなあ  と感心しました。


*************************************************************************

心が外に出て行くとき悲惨を味わう    心の願いが満たされるときには、実は心は自身の本来
の場所に戻っており、自分である幸福を楽しむ

心は休むことなく 動きまわり・・・・・・・

世界と呼ばれているものは   ただの  想い

静寂であるということは 心が自己に溶けている(この表現、気持ちよくて、美しくて、癒されました)
************今日はこんなところが好きになりました*************

忍耐 忍耐   楽しい忍耐^^^^^^^^^。





2009/10/04(Sun) 07:17 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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