2009年06月22日 (月) | Edit |
東井義雄という人がいる。
この方も妙好人なのだそうだ。

妙好人をどう捕らえるか、についてはいろいろと
問題もあるようですが、ろくろくはその言葉の中に
光るものがあればそれでよいのではないかと
思うのであります。

東井義雄さんは浄土宗本願寺派「東光寺」の長男として、
明治45年(1912)4月に京都で生まれたそうであります。

いつも優しい先生が、珍しく厳しかったことがあるという。

それは、ある講演の帰路、お疲れのご様子だった先生を
グリーン車にご案内しようとし、講演先で受け取られ
枯れかけていた小さな花束をゴミ箱に投げ入れた時だった。

「私のような者がグリーン車に乗ると尻がくさる。
もったいなさすぎる、もったいなさすぎる。
こんな東井がすわってもよい席は、グリーン車にはない。」

とそこまで言われて絶句され、さらに、
「せっかくいただいた花束だのに。どれだけの学生さんの
お気持ちがこもっているか・・・、たとえ枯れかけていても、
私にはもったいなさすぎる。きれいなきれいな花束だのにどうして、
それを分って下さらないのか。」

そして、ゴミ箱から枯れかけた花束を取り出された先生は、
その後、大阪から姫路までの1時間余りの車内で、
それをじっと抱くようにしておられた。
もちろん、普通車の堅い座席にすわって・・・。


東井義雄「こころ」の教え東井義雄「こころ」の教え
(2001/10)
東井 義雄宇治田 透玄

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苦しみも悲しみも
自分の荷は
自分で背負って
歩きぬかせてもらう
わたしの人生だから



あたりまえ

あたりまえ
こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを

お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける

手をのばさばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか

しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる

空気をむねいっぱいすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる

みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、
みんなけっしてよろこばない
そのありがたさを知っているのは、
それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ         



うんともすんともいわず

ゆうべの間に
ひげがのびている
しらん間に
うんともすんともいわずに
ひげが のびている

いのちの方は
うんともすんともいわずに
ちぢまっているというのに
ひげが のびている

いや
うんともすんともいわずに
刻々ちぢんでいくいのちを
わたしにしらせるために
そっと
ひげが
信号を送ってくれているのかもしれない
うんともすんともいわずに
ちぢまっているいのちを
わたしに
しらせるために

ひげがのびているということは
わたしが生きているということ

生きているということは
死ぬいのちをかかえているということ

ひげを なでる
うれしいような
さびしいような
愛しくてならぬ
この なまあたたかい
生きているということの
肌ざわり



自転車

おおちゃくげに
腰かけたまま
わたしはペダルを踏んでいるだけ
いろんな
勝手なことばかり
次から次に 考えながら
ペダルを踏んでいるだけ
その わたしを
荷物ぐるみ
腰かけぐるみ
勝手な 考えごとぐるみ
自転車が
つれて帰ってくれる

どうも あんまり
すまんすぎるようだ


どこへいっても どんなに逆ってみても

座敷が
わたしを下からささえてくれる

廊下に出る
廊下の床が
わたしをささえていてくれる

便所へ行く
便所の床が
わたしをささえていてくれる

大地に下り立つ
大地がわたしをささえていてくれる

どこへいっても
何をしているときにも
忘れているときにも
怒っているときにも
その わたしを
ささえてくれているものがある

とびあがってみた
でも やはり
おちる以外仕方のない わたし
それを 待ってて
ささえてくれるものがある

どこへいっても
どんなに 逆ってみても
その わたしを
持ち
だきとり
ささえつづけてくれるものがある
みんなが
無視し
見放しても
無視することなく 見放すことなく
ささえつづけてくれるものがある


ご説法

雨の日には
雨の日にしか聞かせていただくことのできない
ことばを超えた ご説法がある

老いの日には
老いの日にしか聞かせていただけない
ご説法がある

病む日には
病む日の
ご説法がある

お天気の日にも
健康な日にも
大切なご説法があるのだが

そういう恵まれた日には
嵐の日や雪の日の無電のように
こちらの側に雑音がありすぎて
どうも 聞きとりにくい

病む日を恵まれたおかげで
長いお天気の日 健康な日に
聞きもらしてしまったご説法に
耳を傾けさせていただく


http://w1.avis.ne.jp/~kasahara/tooisens.htm


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コメント
この記事へのコメント
ジャクシン寺
そうですか、ジャクシン寺はまだ完成してない
のですね。なんだかちょっと安心しました。

どんなことでも、それが完成するまでが楽しい
というのがありますから・・・

資金が底をついたということはとてもいいこと
だと思います。

人生思い通りにいかない方が多いというか、
思い通りに行かないから楽しんだと思います。

それから円形脱毛症は、まもなく毛が生えてく
るとおもいます。あと少しの間、充分にお楽し
みください。

もちろん仮本堂が出来上がりましたらコメント
させてください。

ちょくちょくジャクシンブログを覗き見させて
頂いていますが、いつも言葉の巧みなのに関心
してしまいます。

see you agein.....(/_・、)/~~


2009/06/25(Thu) 23:04 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
いや~
円形脱毛の心配をしてくださって恐縮です(ノ∀ ̄〃)
段々と進行して五百円玉の2倍はありそうなぐらい抜け落ちてしまいました。

で、お寺の事なんですが
(お寺と言っても今回は仮本堂で本当のお寺はまだまだなんですけどね)
実はまだ建っておりません^^;

正直に申しますと資金が底をつきました。
お寺って言うと世間的にはセレブ・ハイソのイメージがあるかもしれませんが、
ジャクシン寺(仮)は「あしたのジョー」の丹下ジム並みに経営に苦しんでおります(* ´Д゜*)

ろくろく様
励ましのコメントありがとうございました!
仮本堂が出来上がりましたらコメントお願いします!
2009/06/25(Thu) 11:37 | URL  | jackthin #fkxczLn.[ 編集]
その静けさが愛だった
やまんばさんは、2007年9月4日記載の
「その静けさが愛だった」に再会されたのですね。

ろくろくブログを印刷して別のファイルに保存しておく
というのは大変なことだったと思いますが、
たしかに今や宝の山になったです。

そのころ使っていたPCが壊れてしまい、保存していた
ブログの資料はすべて消えてしまいました。

もっともいまならまだ、すべてネット上にありますから
コピーすればいいのですが、すごい量ですからなかなか
できてないでいます。

やまんばさん同様、わたくしもすべてすっかり忘れて
しまっています。こまったものです。

こまったものですと言いながら、
少しもこまっていないのですから、
こまったものです。


2009/06/23(Tue) 22:11 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ジャクシンさん
勿論覚えています。
「そうだ、寺建てよ。」の
ジャクシンさんですよね。

寺はもう建てたんですよね。
すごいです。

わたくしも以前円形脱毛症になったことが
ありましたです。恥かしかったです。

ところが、ちょうどそのころ、
ありがたいことに、チベットのダライ・ラマが
円形脱毛症になっていたんです。

ダライ・ラマも円形脱毛症になるのだから
わたくしが恥かしがってどうするんだと
考えたらなんだかスッキリしました。

それと円形脱毛症はほって置いても割と早く治る
と聞いていたので、忘れているうちに治ったです。



浄土系仏教の妙好人の方々の言葉は、私たち素人でも
なんとか理解することができて、ありがたいです。

それに比べると禅宗や真言宗などには、妙好人のように、
信仰心が篤い在家念仏信者を称賛して言う言葉が
ありませんです。

禅宗や真言宗などは賢い人やエリートの教えであり、
素人が簡単に理解することができないものだと思います。


「自身の絶望と浄土門によって救われる歓喜」というか、
今、自分のどうしょうもなさを受け入れることの喜びを
感じることができるろくろくであります。

ありがとうございます。



2009/06/23(Tue) 21:44 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ろくろくブログは宝の山
主人が趣味で陶芸を始めて三年。かなり大きなものを作るようになりました。私は時々絵付けを頼まれます^^

その中に布袋さんのお腹のような形をした壺がありました。何を描こうか?その壺を見ていると十牛図の一つが浮かんだのです。ブログの十牛図の記載の部分はいつかは絵で表現したいと、ブログを印刷して別のファイルに保存しておいたのです。絵付けが終わり、ファイルの続きを読み始めた私は、2007年9月4日記載の「その静けさが愛だった」に再び出会いました。
自己観察をしているときに、垣間見える「青空」と、瞑想のはての境地と、十牛図の鏡の図にあらわされているものが、(言葉の上では^^)やまんばの中でつながりました。

その記載の前後の9月3日から、9月19日の他者は自分の鏡・・まで、同じファイルに収めていました。錬金術者さん、マリアさん、ろくろくさんの含蓄あるコメントの山々。すばらしい!!!一生かかってもわからないだろうとため息をつきながら(うひゃうひゃ言いながら)やまんばは印刷していたように思います^^^^

すぐに忘れるやまんばはまた何年か経過して、「ここにいいこと書いてあるわ~。やっぱり、ろくろくブログは宝の山だわ~」と言うにちがいありません^^^。
2009/06/23(Tue) 08:21 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
お釈迦様の説かれたのは99.9%聖道門の教えだと思うんです。
誤解を恐れず言えば、

「仏教=聖道門」

だと思ってます。

しかし最悪最下の人までも救う法でなくては仏教は仏教としてまたは普遍的宗教として生き残っては来なかったでしょうね。
何段もの重箱を運ぶには一番下を持たなければ箱全体が運べない、そのように全ての衆生を救うためには極悪最下の人までも救う法でなくては一切衆生を救えないのだと思います。

そのお釈迦様の説かれた0.1%の教えによって今の私が救われているんですねー(シミジミ)

そう思いながらろくろく様が紹介してくれた

「どこへいっても どんなに逆ってみても」

を読み直してみますと感慨深いものがあります。

>とびあがってみた
>でも やはり
>おちる以外仕方のない わたし
>それを 待ってて
>ささえてくれるものがある

仏教の王道である聖道門から外れた自身の絶望と浄土門によって救われる歓喜が共生している文だと思います。
たくさんの詩を紹介していただいてありがとうございます!



久しぶりのコメントです。
覚えてますか?真宗僧侶のジャクシンです。
またちょこちょこ遊びに来ますね~

2009/06/23(Tue) 01:13 | URL  | jackthin #fkxczLn.[ 編集]
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