2008年11月17日 (月) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(73)


心が、アハン・ヴリッティの源を尋ねることをとおして内面に向かえば、
ヴァーサナは絶滅され、心と呼ばれる反映現象もまた、反対の媒体がな
くなるので、ただ一つの実在の光、ハートの内に溶けて消えてゆくので
ある。

修行者に不可避のものとして求められているのは、
アハン・ヴリッティの源を熱心に一点に集中して
問いつづけることである。

弟子 しかし、その人がどれほど努力をしても、それは眼が覚めている
状態の心に限られています。心の三つの状態の内の一つにすぎない状態
で行なわれる探究が、どうして心そのものを打ち壊すことができるので
しょうか?


マハリシ アハン・ヴリッティの源の探究は、もちろんサーダカ(修行者)
の眼が覚めているときに行なわれる。彼の心が打ち壊されているとは言い
がたい。

けれども、自己探求の過程そのものが、三つの心の状態の交代や相互変化
を露にすると同時に、激しく内面への探究を続けていれば、それに影響を
及ぼすことのできない現象世界のものである三つの心の状態そのものをも
明らかにするだろう。

自己探求は、心の激しい内向性をとおしてのみ本当に可能なものである。
このようなアハン・ヴリッティの源への探究の結果として、最後に実現
されるものは、分割されざる純粋意識の光としてのハートそのものである。
反映された心の光は、その中に完全に溶けこんでしまう。

弟子 ジュニャーニにとっては、それでは心の三つの状態の差別は全然
ないのでしょうか?

マハリシ あるはずがない。心そのものが、意識の光の中に溶かされて失
われてしまっているのだから。

ジュニャーニにとっては、三つの状態のすべては等しく非実在である。
けれどもアジュニャーニはこのことが理解できない。なぜかというと、
彼にとっては実在の基準は眼が覚めている状態だからである。

ジュニャーニの実在の基準は、実在そのものである。
この純粋意識の実在は、その本性に従って永遠であり、あなたの言う、
眼覚め、夢、眠りという三つの状態をとおして等しく息づいている。

その実在と一つになった人にとっては、心も心の三つの状態もないの
みならず、内面性も外面性もないのである。その状態は、永遠に醒め
た状態である。

彼は永遠の自己に覚醒したのである。また、その状態は永遠に夢見て
いる状態でもある。なぜなら、世界は、彼にとってはくりかえし現れ
てくる夢現象以上のものではないからである。

その状態はまた、永遠の眠りの状態でもある。なぜなら、彼はいつで
も常に「身体が私である」という意識を持たないからである。

弟子 それでは私は、シュリ・バガヴァンは、眼覚め-夢み-眠り、
の状態で話されていると考えるべきなのでしょうか?

マハリシ あなたの意識経験が、今は、心が外側に向かっている状態
に限られているので、この瞬間を眼が覚めている状態と呼ぶのである。

それにもかかわらず、ずっとこの間、あなたの心は自己に対し眠り続
けてきた。それゆえにあなたは今、本当に深く眠っている。



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
一期は夢よ
室町時代後期の歌謡集「閑吟集」に
「何しょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
という言葉があります。

一期とは、ご存知のように、生まれてから死ぬ
までの一生、という意味です。

室町時代の人はすでに「一生は夢」であると分
かっていたのですかね~


「幽体離脱みたいに世の中に起こる現象を巻き
込まれず見る」ことは、やまんばさんに限らず
ほとんどの人にとって不可能なことなのです。

唯一「死を体験したとき」に分割されざる純粋
意識(般若)を垣間見ることが出来るといわれて
います。

やまんばさんの「絵を描いているとき」にも
それに近いことがあるかもしれませんが、

それは純粋意識(般若)というよりは、変性意識
(アルタード・ステーツ)に近いものかもしれま
せん。


「何しょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
の言葉は、間もなく登場する
『ひろさちや著「狂い」のすすめ』で詳しく?
学んでまいりたいと思っております。



2008/11/17(Mon) 20:03 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
くりかえしあらわれる夢なのですかあ~~
幽体離脱みたいに世の中に起こる現象を巻き込まれず見ていたらいいにですね。あんまりにも長い間、この世界のみ現実であると焦点を合わせてきたから、いまさらすべては夢なのだといわれても、意識改革はむつかしいことです。が、ヒントとして絵を描いているときは、内も外もなくただ「在る」という状態なのかもしれない・・・。
「夢見も眠りも目覚めもすべては等しく非実在」と書かれてある。「この世が実在である」というのは迷いの世界にいるということなのですね。

昨日はブログの中に、「般若」という言葉をみつけた。般若ってなんだろう?よく般若心経といわれているけど、ここに結びついてくるとは知らなかったです。
般若=絶対意識=ブラフマン= 一にしてただ実在・・・・ふむふむそうなのかあ・・いつの間にか般若心経も学んでいたことになるのでしょうか・・。
やまんばは本当に何にも知らない人間なんだわ。
こうして毎日皆様の前で、大恥をかいているのですねえ^^^^おかしい(おなかを抱えて笑う)ことですね^^。まあ、それもすべて夢かあ、泡のごとく消え去っていくのですね^^^ありがたいことです^^^
2008/11/17(Mon) 07:27 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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