2008年11月16日 (日) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(72)


弟子 ジュニャーニにあっては、エゴはサットヴィック(純粋)な姿で
息づいているので、実在的なあるものとして現れる。それでいいので
しょうか?

マハリシ 違う。どんな姿にせよ、エゴの存在は、ジュニャーニにあ
ってもアジュニャーニにとっても、それ自身現れにすぎない。

けれどもアジュニャーニは、眼が覚めている状態や世界が実在である
という考えに迷いこんでいるので、エゴも実在的なものとして現れる。

アジュニャーニは、ジュニャーニが他の人々と同じようにふるまうの
を見て、ジュニャーニもまた個人性を有するのだという何らかの観念
を仮定せざるをえなくなるのだ。


弟子 それではジュニャーニにあっては、アハン・ヴリッティはどの
ように機能するのでしょうか?

マハリシ ジュニャーニにあっては、それは何の機能も果たさない。
ジュニャーニのラクシャ(注目)は、ハートそのものである。

彼は、ウパニシャッド聖典群の中でプラジュニャーナ(絶対知識あるい
は般若)と呼ばれている、分割されざる純粋意識と同じものであり、
一つだからである。プラジュニャーナはまさにブラフマンであり、
絶対であり、プラジュニャーナの他にブラフマンはない。

弟子 それではアジュニャーニの場合は、この一にしてただ実在である
ものについての無知が、不幸にもどのようにして現れるのでしょうか?

マハリシ アジュニャーニは、ハートから放たれる純粋意識の光の反射
にすぎない心だけを見ている。ハートそのものについては、彼は無知で
ある。なぜかというと、彼の心は外を向いており、けっしてその源を探
ろうとはしないからである。

弟子 ハートから放たれる、無限の分割されざる意識の光が、アジュニ
ャーニに顕現するのを妨げているものは何でしょうか?

マハリシ 壺の中の水が、限られた狭い範囲の中に巨大な太陽を映すの
とまったく同じで、ヴァーサナ、つまり個々人の心の潜在的な傾向性は、
反射の媒介として活動し、ハートから放たれるすべてに浸透する無限の
意識の光を受けとる。

そして心と呼ばれる現象の反射の形をとって存在する。この反映だけを
見てアジュニャーニは、自分を限りある存在、つまりジーヴァ(個我)で
あるという信念に迷いこんでしまう。

心が、アハン・ヴリッティの源を尋ねることをとおして内面に向かえば、
ヴァーサナは絶滅され、心と呼ばれる反映現象もまた、反対の媒体がな
くなるので、ただ一つの実在の光、ハートの内に溶けて消えてゆくので
ある。

修行者に不可避のものとして求められているのは、アハン・ヴリッティ
の源を熱心に一点に集中して問いつづけることである。




次回につづく


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