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2008年11月15日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(71)


マハリシ アハン・ヴリッティの源を探ることは、エゴのさまざまな
形のひとつの基本をさぐることであるばかりでなく、そこから「私で
あること」が起こってくる源そのものを探ることにもなるのである。

別の言い方をすれば、アハン・ヴリッティという形においてエゴの源
を尋ね、実現することは、必然的にすべての人々の内なるエゴを、あ
りうるかぎりの形において超えることを意味している。

弟子 アハン・ヴリッティが、エゴのすべての形を根本的に含んでい
ることは認めますが、なぜそのヴリッティだけが自己探求の道として
選ばれなければならないのでしょうか?


マハリシ それが、あなたの存在にとってこれ以上滅することのできない、
ひとつの根拠だからであり、その源を求めることが、自己を実現するため
に採られる、唯一の実行可能な道だからである。

エゴは因果律の身体を持っているといわれているが、それをどうやって
あなたの探究の主題とすることができるかね。エゴがその形をとるとき
には、あなたは眠りの暗闇の中に浸されている。

弟子 しかし、微細な姿と因果の姿にあるエゴは、心が眼覚めている間に
行なわれるアハン・ヴリッティの源への探究をとおしては、やはりとらえ
ることはむずかしいのではないでしょうか?

マハリシ そうではない。アハン・ヴリッティの源へと探り入ることは、
エゴの存在そのものに触れることである。それゆえに、エゴの形の微細性
は実質的な問題ではない。

弟子 まったくエゴに依存していない、条件づけられない、純粋な自己と
いう存在を実現することが目標であるのに、アハン・ヴリッティという形
のエゴに関する探究をすることに、どんな利益がありえましょうか?

マハリシ 機能上の観点からすれば、形、活動性、それを何と呼ぼうとか
まわないが(それは次第に消えてゆくものなので、実質的なものではない)、
エゴは一つの、たった一つの特性を持っている。

エゴは、純粋意識である自己と、不活発な生命力のない物理的身体との間
の結び目として作用する。エゴはそれゆえに、チット-ジャダ・グランティ
(結び目としての意識)と呼ばれている。

アハン・ヴリッティの源に探り入るうちに、あなたはエゴの根本的なチット
性(意識性)を得る。この理由によって探究は必ず自己の純粋意識の実現に
導くのである。

弟子 ジュニャーニによって実現される純粋意識と、経験の原初的な根拠と
して受容される「私であること」との間にはどのような関係があるのでしょ
うか?

マハリシ 純粋存在である分割されざる意識はあなたが本来それであるハー
トつまりフリダヤムという言葉は、フリットとアヤムから成っており、その
意味は、「ハートは私である」である。

ハートから、その人の経験の原初的な拠点である「私であること」が現れて
くる。それは、それ自身でスッダー・サットヴァ(純粋な性質)を持っている。

ジュニャーニの内に息づく「私」が現れるのは、このスッダー・サットヴァ
・スヴァルーパ(ラジャス=激しい性質や、タマス=濁った性質、に汚染さ
れていないものとしての)の内においてである……。




次回につづく


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
ラマナ・マハリシの教え
山尾三省訳の「ラマナ・マハリシの教え」も今日を入れて
あと四回で終了です。今回このようにみなさんと最後まで
読み通すことが出来て大変有難く思います。

この「ラマナ・マハリシの教え」によって私は大変大きな
ことを学んだと思います。この本を精読することが出来た
ことだけでも、碌々ブログを続けてきてよかったなあ~と
思っています。

今日のラマナの教えのなかで特に注目したのは、次の言葉
でした。

「エゴは、純粋意識である自己と、不活発な生命力のない
物理的身体との間の結び目として作用する。エゴはそれゆえに、
チット-ジャダ・グランティ(結び目としての意識)と呼ばれて
いる。」


やまんばさんの今日のコメントの中に出てくる
「こんこんと枯れることのない泉」のイメージは
まるで絵画を見ているような気持ちになりました。



2008/11/15(Sat) 18:40 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
こんこんと湧き出る泉
むつかしい言葉や、先生と弟子とのわかったようなわからないような応答の中から、こんこんと枯れることの無い泉が現れてきました。
みんな誰のこころにも、こうして瞬時も休むことなく清らかで美しい水が溢れているんだなあと思った。

ただそのことに気づきさえすればいいのだと思った。
夜、眠りにつく時、その事実を思い出して、眠っている間に泉の流れで、翌朝はきっと心が洗われているはず・・安心して眠ればいいんだ・・そう思った。
2008/11/15(Sat) 07:35 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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