2008年11月01日 (土) | Edit |
H. サダーティッサ著 桂紹隆・桂宥子訳「ブッダの生涯」立風書房より(52)


ブッダの倫理的教えは、決して空理空論ではない。
人間性にしっかり根ざしており、ブッダが僧団の指導者であった間に、
しばしばその実効性が試されたのであった。

世間の人びとと同様に僧たちも嫉妬し、口論し、身勝手になることが
あったようだ。僧団内の緊張状態を解決することも、ブッダの仕事の
一つであったにちがいない。

そして、ある時弟子たちの振舞いにブッダはまったくいや気がさした
ようだ。

衛生に関するささいな規則について、コーサンビーの僧院で論争が
起きた。それは僧院の長老である〈教義〉の大家と、〈戒律〉の大家
の間に起こったものである。


争いはそれぞれの弟子たちに波及し、やがて他の僧や尼僧、在俗の信徒、
さらには仏弟子でない人たちさえ巻き込む公開論争に進展した。

ある段階で〈戒律〉の大家は、〈教義〉の大家に破門を言いわたした。
衛生に関する自身の規則違反を認めないといううわさがあったからで
ある。

ブッダはコーサンビーの僧院に使者を送り、口論をやめさせようとした。
それが効を奏さなかったとき、ブッダみずからコーサンビーに出かけて
行った。それでも、彼らは耳を貸そうとしなかった。

がっかりして立ち去ったブッダは、ひとりさまよい歩き、雨季の間、
パーリレイヤという森に身を寄せた。彼はそこで一頭の象に助けられた。

口論をやめない僧たちをブッダが見放したと聞いて、コーサンビーの在
俗の仏教徒は僧を支援するのをやめた。すると、僧たちも分別をとりも
どし、あわてて支持者たちに謝罪した。

しかし、彼らは僧たちがブッダと仲直りするまで謝罪を受け入れること
を拒んだ。すでに雨季に入っていたので、ブッダを探しにでかけること
はできなかった。かくして、僧たちは数週間を不安のうちに過ごしたの
であった。

パーリレイヤの森に滞在するブッダの記録は、コーサンビーの弟子たち
の不和と対照的である。象は野獣の危険からブッダを守ったばかりでな
く、乞食に同行すると、鉢や衣を頭に乗せて進んだ。

一匹の猿もある日、野生の蜜を集めてきてブッダに捧げた。このように
ブッダは自然と調和した牧歌的な日々を過ごしたのであった。やがて、
ブッダが気高い象に仕えられ、森に隠棲していることが知られるように
なった。

サーヴァッティーの町では、アナータビンディカはじめ数人の指導的人
物が、アーナンダにブッダがもどるよう説得ことを依頼した。そうすれ
ば、コーサンビーの僧たちとの問題を解決できると考えたからである。

大勢の僧とともに、アーナンダは森へ出かけた。ブッダは辛辣な言葉で
彼らを迎えた。

「立派に生きている仲間、交際するにふさわしい賢い仲間がいれば、仲
よくいっしょに暮らすがよい。そうでなければ、国が捨てた王や森に住
む象のように、ひとりで暮らすがよい。愚か者とつき合ってもしかたが
ない。ひとりでいるほうがましだ。」

しかしながら、ブッダはサーヴァッティーにもどることに同意する。
泣き叫ぶ象との別れは、胸をつく悲しい場面として描かれている。




次回につづく


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
あなたは、すでにそれである
・・・・・・・
光輝く意識の原初にたどりつき、
心とは何ものであるかを知り抜いたとき
おまえにはもはや
この現象の無常に対する恐れ 悲しみ 虚無感はない
その静かな心の鏡には
現象の世界のつねに動いてやまない様が
限りなき戯れのように映っている
・・・・・・


「万物の根底には一つの絶対的な本質、非人格的な実在がある」

ラマナ・マハリシはこの「光輝く意識の原初」のことを、
私たちの存在の「源」に横たわる時空をこえた「根源的な気づき」、
「究極的な意識」、「究極の実在」、「自己」と表現しているのだと
思います。

マハリシは弟子の「どうやって自己に到達できましょうか?」
という質問に対して「自己にたどりつくことはない」と答えます。

マハリシ 自己に到るということはない。
自己がもし到られるべきものならば、それは今ここにはなく、
やがて得られる何かを意味するだろう。

新しく得られるものはまた、失われるものでもある。
それは永遠のものではない。永遠でないものに努力する価値はない。
それゆえに、自己は到るものではないと言うのである。

あなたは、自己である。あなたは、すでにそれである。

事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態について無知だということだ。
無知は次から次へと続き、至福である自己にヴェールをかける。
努力はただ、この悪い知識である無知のヴェールをはぐことに向けられ
ればよい。

悪い知識とは、自己と身体や心などを誤って同一視することである。
この偽りの同一は去らねばならぬ。そうすればただ自己のみがそこに残る。

それゆえ、実現はすべての人おのおののものである。
実現は、それを願う人々の問に差別をつけない。
あなたが実現できるかという狭いそのもの、自分は実現していないという
考えそのものが障害である。

このような障害物からも自由になりなさい。



2008/11/01(Sat) 17:02 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
私利私欲に走れば道を見失う
どんなにすばらしい人でも、最終的には自分が可愛い。だから、時々道からそれてしまうけど、その人間界を見極め、迷える原因をつきとめ、解脱されたブッダは、皆の幸せを願い、教え導かれる。極楽浄土のような森の中に住むより、泣き叫ぶ象に別れても、迷える皆の中に帰っていかれる。
それが、ブッダの道だから・・・。
「人には各々道があるのだ」と、今日の内容を読ませていただいて、やまんばは改めて思いました。
それが道ならば、どんなに苦しくても諦めないで続けていくことが出来る「何か」がある。
きっぱり諦めることができるのは、ひょっとしたら、その人の本当の道ではないのかもしれません。
ブッダは本当に慈愛に満ちたやさしい方なのだと、思いました。光そのもの、愛そのものの方なのだと思いました。

今朝、一枚の絵を描くために、何冊かのスケッチ帳から、資料となるスケッチを探していたら、十数年前のスケッチ帳によほど感動したのか、一枚に大きく書いた文をみつけました。やまんばは今それにふれて、わからないなりにも、今でもずーと探しつづけている「あきらめない自分」を発見してジーンといたしました。紹介させてください。
・・・・・・・
光輝く意識の原初にたどりつき、
心とは何ものであるかを知り抜いたとき
おまえにはもはや
この現象の無常に対する恐れ 悲しみ 虚無感はない
その静かな心の鏡には
現象の世界のつねに動いてやまない様が
限りなき戯れのように映っている
・・・・・・
これがどこに書かれているのか?やまんばには今もわかりません。どなたかから、教えていただいた言葉かもしれません・・。
この言葉の意味することを、この世にいる間に本当に理解することが出来たなら、やまんばの「死んだら天使になる」という夢はかなえられるのではないかと、笑みがうかびました^^^^。
2008/11/01(Sat) 07:44 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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