2008年10月29日 (水) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(69)


弟子 シュリ・バガヴァンは、自己はどの中心、つまりチャクラに
おいても作用するものの、その座はハートの内にあるといわれますが、

激しく眉の間に集中すること、つまりディヤーナを実修することによって、
そこがおのずから自己の座になるということは不可能なのでしょうか?

マハリシ あなたの注意を制御する一定の場所を決めることによって、
単に自己集中の実修をする段階にあるかぎりは、自己の座についてどんな
に考えてみたところで、それはただの理論づけにすぎない。

あなたは、自分自身を主体であり見る者であると見なしているので、
あなたが注意を集中するその場所は見られる対象物になってしまう。
これはただのバーヴァナー(瞑想の連続)である。


そうではなくて、あなたが見る者自身を見るならば、あなたは自己に
溶けて、それと一つになる。それがハートである。

弟子 それでは、眉の間に集中する実修をやってはいけないもので
しょうか?

マハリシ どんなディヤーナの実修も、その行き着くべき結果は、
サーダカ(修行者)がそこに心を集中するその対象が、主体から分離
され区分されたものとして存在することを止めることである。
それら(主体と客体)は、一つの自己となる。それがハートである。

眉の間のチャクラに集中することは、サーダナのひとつであり、それ
によって想いはしばらくの間は効果的に制御される。その理由は、
すべての想いは外へ向かう心の活動であり、想いは、しばらくの間は、
それが物理的なものであれ心理的なものであれ、「見ること」に従う
からである。

注意を両眉の間に固定するこのサーダナは、ジャバ(唱名)といっしょ
に行なわれるべきだ、ということを覚えておきなさい。なぜなら、
物理的な眼の次に大切なものは物理的な耳であり、両者が心を制御
するか紛らすかしてくれる。

心の眼(それは対象物を心で見ることである)の次に大切なものは、
心の耳である。心の耳とは、心で語を発することである。両者は心を
制御し、それによって心を強くする。あるいは、心を紛らし、それに
よって心を追い払う。

心の眼を、両眉の間のような中心に固定している間は、あなたは心の
中でナーマ(神の御名)かマントラを唱える実修をする必要がある。
そうしないと、あなたはやがてその集中の対象点を保つことができな
くなるだろう。

今述べたようなサーダナは、ディヤーナの目的に選ばれたチャクラと
ともに――それを何と呼ぼうがかまわないが――御名、真言、あるい
は自己との同一化へと導くものである。純粋意識、自己あるいは
ハートが究極の実現である。

弟子 なぜシュリ・バガヴァンは、ある一定のチャクラへ集中する実
修を、私たちに直接示して下さらないもでしょう?

マハリシ ヨーガ・シャーストラによれば、サハスラーラつまり脳が
自己の座であるという。プルシャ・スークタはハートがその座である
と宣言する。

サーダカ(修行者)が、さまざまな疑問の中をためらうことなく舵を取
っていけるように、私は彼に〈「私」性‘I'-ness〉、あるいは
〈「私である」性‘Iam'-ness〉という手がかりまたは糸を取り上げ
るように勧め、それをたぐってその源に到るように勧める。

なぜなら、まず第一に「私」という注目については、誰もどんな疑問
もさしはさむことはできないからであり、次には、どんなサーダナが
採られるにせよその究極の目標は、あなたの経験の原初の根拠である
〈「私である」性〉の源を実現することにあるからである。

それゆえに、あなたがアートマ・ヴィチャーラ(自己探求)を実修すれ
ば、あなたは自己であるハートに到るであろう。



次回につづく


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ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
りんごの唄
先ほどから、なぜか「りんごの唄」が耳について
離れないので、このりんごの唄の歌詞を例にとって
ご説明してみます。

赤いりんごに くちびる 寄せて
黙って見ている 青い空
りんごは何にも 言わないけれど
りんごの気持は よくわかる
りんご 可愛いや 可愛いや りんご


あなたは今、赤いりんごにくちびるを寄せて
黙って青い空を見ています。

あなたは見る者で、りんごや青い空は、
見られる対象物になっています。

そうではなくて、
りんごを見ている者自身を見るならば、
あなたは自己に溶けて、りんごと一つになる。

りんごは見られる対象物ではなくなり「私ー私」になる。

同様に青い空と私が一つになる。青い空はもう見られる
対象物ではなくなる。それがハートである、という。

やまんばさんが絵を描いているときもおそらくその様な
状態になっているのだと思います。


2008/10/30(Thu) 18:24 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
こなさん、みんばんわ
あらぁ~主体と客体が溶けてしまって、まだ元の状態に
戻っていないようです。

みなさん、こんばんは。
山の中のひなびた温泉に二日間ひたっておりました。
おお~やっと少し戻ってまいりました。

ノートパソコンを持っていきましたが、
電波が届くような処ではありませんでした。
コメントのお返事が出せなくてごめんなさい。



2008/10/30(Thu) 16:23 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
心の目 心の耳
主体と客体は一つの自己となる・・あなたは自分自身を主体であり、見るものであると見なしているので、あなたが注意を集中するその場所は見られる対象物になってしまう。・・・見るもの自身を見る
大切なことが書いてある。

これは日常生活では、本当に訓練が必要ですねえ。
これをやっていると感情がなくなるのではないだろうか?とてもむつかしいです。
やまんばはやはり制作することを続けていくことにします。夢中になると、主体とか客体などというややこしいことは一切存在しない。思考も存在しない世界です。いつのまにか子供のようになり、遊んでいる^^
制作を続けていると、妙に勘が冴えてくる。
心の目とか耳とかいうのはこの状態なのかもしれないと思いました。
2008/10/29(Wed) 07:27 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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