2008年10月28日 (火) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(68)


一方、盗人に入られた家の人は、カマルの何の手がかりにもならない首の
ない身体を差し出して、一件を王様に告げた。身もとを調べるために王様
は、その身体を町の大通りに目立つように縛りつけておいた。

そうしておけば、その死体を請求に来るか持って逃げようとする人は(死体
は親類縁者によってとり行われる最後の儀式なしに棄てられてはならない
ものなので)、ひそかに配置されている警官に尋問され、逮捕されるはずで
あった。

カビールとその一行は、大声でパジャナをしながら大通りをやって来た。
すると驚いたことには、カマルの首のない身体が(それは確かに死んだと
見なされていたのだが)、パジャナの一行の歌の調子に合わせて、両手を
打ちはじめたのだった。

この物語は、頭ないし両眉の間の位置が自己の座であるという主張を反駁
するものである。


戦場にあって戦っているひとりの兵士の頭が、突然強力な刀のひと振りで
切り落とされても、身体は倒れて死ぬ前のわずかな間であるが、あたかも
戦っているかのように手足を動かし、走り続けるということにも注目する
べきである。

弟子 しかもカマルの身体は、何時間も前に死んだのでしょう?

マハリシ あなたの言う死は、カマルにとっては本当は少しも特別の体験
ではない。ここにカマルがもっと年少だった頃起こった物語がある。

少年のカマルには同じ年頃の友だちがあり、おはじきをしては遊んでいた。
二人が決めた規則は、二人の内のどちらかかが一ゲームでも二ゲームでも
借りを作ったら、次の日に同じだけその借りを返す、というものだった。

ある日の夕方、カマルの貸しでゲームを終わって別れた。次の日「お返し」
をしてもらいに、カマルは友だちの家に行った。ところが友だちはヴェラ
ンダに横たえられていて、親兄弟がそのそばで泣いていた。

「いったいどうしたの?」カマルは彼らに尋ねた。「この子は昨日の夕方
ぼくとゲームをやって、今日はぼくに借りがあるんだ。」親兄弟は、その
子は死んでしまったのだと言って、いっそう激しく泣いた。

「違うよ」カマルは言った。「この子は死んでなんかいないよ。ただぼく
に借りたゲームを返すのがいやなもんで、死んだふりをしているだけだよ。」

親兄弟はとんでもないというように、その子が本当に死んでおり体はもう
冷たく硬くなっているのを、自分で確かめるようカマルに言った。

「だけど、これはみんなこの子がふりをしているだけなんだよ。ぼくは知
ってる。体が硬くて冷たいくらいが何だっていうの。ぼくだってそれくら
いのことはできるよ。」そう言うとカマルは横になり、またたく間に死ん
でしまった。

かわいそうに親兄弟は、それまで自分の子どもが死んだのを泣き、苦しみ、
ショックを受けていたのに、今度はまたカマルの死のためにいっそう泣か
なければならなかった。

けれどもカマルは、やがて背を持ち上げて起き上がり、「今見たでしょう?
ぼくはあなたたちが死んだと思う状態だったけど、生きて立ち上がって、
蹴とばしています。この子も、そんなふうにぼくを騙そうとしているだけ
なんだ。だけど、こんなことでぼくは騙されやしないぞ。」

この物語は、カマルの生まれつきの聖性が死んだ子どもに生命を与え、
カマルは相手に貸していたゲームを始めることで終わる。

この寓意は、身体の死は自己の滅亡ではないということである。その身体
への関係は、誕生や死によって制限されることはない。まして、物理的身
体内のある場所が、自己の場として経験されるからといって、そこに自己
が限定されることはない。

たとえばディヤーナ(禅定)の実修は、両眉の間でなされるが、そこに自己
の場が限定されることはない。自己覚醒の至高の状態は常在であり、生死
と同様に心の三つの状態をも超越している。




次回につづく


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
カマル少年
確かにカマル少年の話はすごすぎますね。

「今見たでしょう?ぼくはあなたたちが死んだと思う状態
だったけど、生きて立ち上がって、蹴とばしています。」

しかし、何を蹴とばしているのでしょうね?
友だちでしょうか?

その死んでしまった友だちを、ゲームの「お返し」をして
もらいたいがため、というか、決して死んでなんかいないんだ
というカマル少年の信念が、友だちを生き返らせてしまった。

なんだかありえそうですね。
ラマナ・マハリシも少年の頃同じ様な体験をしていたそうですね。
だからマハリシは、カマル少年のことは事実であると信じていた
と思います。

だからカマルの首のない身体が、パジャナの一行の歌の調子に
合わせて、両手を打ちはじめることくらいは朝飯前だったというこ
となのでしょう。



2008/10/28(Tue) 18:49 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
すご~い!
カマル少年はすごすぎます。
生まれつきの聖性で死んだ子供に命を与えることが出来る。聖書にも、キリストが死んだ人を蘇らせる箇所があったし、「あなたのいう死はカマルにとっては本当は少しも特別の体験ではない」とマハリシは弟子に言われている。タイムマシンがあるのなら、やまんばはカマル君に会ってみたいです。手をつないでもらって、死んだり生きたり体験できたら愉快でしょうね^^。「身体の死は自己の滅亡ではない。」確かに滅多にないことですが、死んだ人をとても身近に感じることはありますものね・・・。しかし、カマル君は肉体を伴って生きたり死んだりしているのがすごいです。理解をはるかに超えて頭がコンガラガリマス。
2008/10/28(Tue) 06:06 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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