2008年10月24日 (金) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(64)


真実を言えば、純粋な意識は分割できないものであり、
部分を持たないものである。

それは、姿も形も持たず、内も外もない。右も左もない。
ハートである純粋な意識は、すべてを含み、
何ものもその外になく、それを離れて存在しない。
それが究極の真理である。

この絶対的な見地に立てば、ハート、自己、意識は、
物理的な肉体の内のいかなる特定の場所も占めることは
できない。それはなぜか。


身体は、それ自身が心の投影であるにすぎず、心は光り輝く
ハートの貧弱な反映にすぎないからである。

すべてのものがその内に含まれるそれが、どうして現象的な
現れであり、極微のものにすぎない物理的関係の内の小部分に、
限定されるはずがあろう。

しかしながら、人々はこのことを理解しない。
彼らは、物理的な肉体および世界の言葉で考えずにはいられない。

例えばあなたは言う、「私はヒマラヤの彼方の自分の国から、
はるばるとこのアシュラマム(瞑想場)にやって来た。」しかし
それは真実ではない。

すべてのものに浸透している一者、あなたが本当はそれである霊
に対して「行く」も「来る」もあるわけはなく、いかなる行動も
あるわけはない。

あなたはつねに、これまであなたが在りつづけたそこにある。
移動し、このアシュラマムまで運ばれてきたものは、あなたの
肉体である。これは単純な真理である。

けれども、自分を対象世界の中に住んでいる主体と見なしている
人々にとっては、こういうことは、すべて何かしら幻想的なこと
のように思われる!

物理的な肉体の内に、ある一定場所がハートのために与えられて
いるということは、一般的な理解の水準に降りてきたときにのみ
言えることである。

弟子 それでは私は、シュリ・バガヴァンの「ハートの中心の体
験は、胸の内の一定の場所において行なわれる」という言葉を、
どう理解すればよいのでしょうか?

マハリシ あなたが、ひとたび真実で絶対的な立場に立ち、純粋
意識としてのハートは、時間と空間を越えたものであることを認
めるならば、その正確な遠近法の中で残余のことを理解するのは
たやすいことであろう。

弟子 私がハートの位置について質問をしてきたのは、そのこと
を踏まえたうえで言っているつもりです。私はシュリ・バガヴァ
ンの体験についてお尋ねしているのです。

マハリシ 物理的な肉体にはまったく関係がなく、心を超えたもの
である純粋意識は、直接体験の問題である。

聖者たちは、ふつうの人々が身体的な存在を知っているのと同じよ
うに、肉体のない永遠の存在を知っている。

けれども意識の体験は、肉体がない場合と同様に肉体的な知覚を伴
っていても起こりうる。純粋意識の肉体のない体験においては、
聖者は時空の彼方にあり、ハートの位置についての問いなどはいさ
さかも起こらない。



次回につづく


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ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
時間と空間を越えている
やまんばさんは絵の制作や墨をいじっている時に
「時間と空間を越えている」時があるとおっしゃ
っていますね。

私も時々、そういう状態になっているのに突然気づ
く時があります。ぼんやりしているときだったり、
ぼんやりというよりは瞑想に近い状態かもしれません。
言葉で説明することができません。

意識が勝つというか、「おおっ!すごい」と思ったり
した瞬間に消えてしまいます。


確かに、ブレスレッド&指輪の件、あまり重箱の端を
ほじくるようなことはしないほうがいいでしょうね。

いままで続けてきた、自己観察のなかで、ネガティブ
な言動の自分に重点的に気づいて行くということです。

しかしこれをあまり熱心にやりすぎると、ストレスが
溜まって爆発してしまったりしますから、適当にやり
ましょう。

まあなにごともほどほどに・・・・・


2008/10/24(Fri) 19:16 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
シャキッ!とする。
おはようございます。
毎朝、ここに座ってお話を聞いていると、ネジが何箇所か外れているようなやまんばの頭がシャキッとする思いです。
しかし危険なのは、聞くとなんだかわかったような錯覚が起こることです^^
ひとたびここから離れると、すっかり忘れて日常の慣れ親しんだ意識に埋没して、なんだか一日が過ぎて行きます。

ここでの言葉が実際に生きるには、絵の制作や墨をいじっている時です。あとから振り返れば、ああいうのが時間と空間を越えているということなのだろうか・・・と思えるのです。

ろくろくさんへ
今日の言葉・・・目が覚めるようです。
「自分の一切を受け入れ、生を完全にいき、心おきなく死ぬためには われわれは何も否定してはならない」・・やまんばも心おきなく死にたいです。
われわれは何も否定してはならない・・というところで、やまんばはあることに気がつきました。
絵を制作するとき、もっと練習してから・・となんとなく完成することを先延ばしにしていたような感があったのですが、「いつも誰でも完全なる自己そのもの」なら、なぜ今の自分を未熟だと思のだろうか?と気がついたのです。「私はダビンチでも、ピカソでもないのだ。やまんばなのだ!」何かにむかう時は、これが最期のように集中しよう。かならず出来るはず!今の自分の完成、それを生涯持続させていこうとおもいました。
ブレスレッドならず指輪のことですが、やまんばは小さいことにはこだわらず、大きな決断や選択のときだけにすることにしました。小さいことにこだわると、しょっちゅう指輪の位置を左右に動かさねばならず。ちっとも落ち着かないからです。やまんばにとって勇気のいる選択のとき、絶対否定的な思考に走らず、その結果に対して、愚痴やしみったれた言葉は使わない!ということに決めました。出来る 出来ないではなく、とにかくやってみます。
2008/10/24(Fri) 07:48 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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