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2008年09月30日 (火) | Edit |
H. サダーティッサ著 桂紹隆・桂宥子訳「ブッダの生涯」立風書房より(41)


降ろすや否や、鷹が赤ん坊に襲いかかった。
大声を出して追い払おうとすると、対岸で待っていた上の子は、
母親が呼んでいると思って河に飛び込んだ。

おどろいた母親もその子を救おうと水中に飛びこむ。
しかし、時すでに遅く、上の子は急流に流されて溺れてしまった。

一方、母親が岸にもどる前に、鷹は舞いもどって赤ん坊を連れ去
ってしまったのである。

まるでこれでも足りないかのように、パターチャーラーが
サーヴァッティー市に着いたとき、別の災難が待ち受けていた。


両親のことが知りたくて、町はずれでひとりの男をつかまえると、
彼女は両親いついて知っているかとたずねた。「その華族について
だけは聞かないでくれ。」と、男は答えた。

そして、前夜パターチャーラーたちを苦しめた嵐が、両親の家を
破壊し、親たちは亡くなったことを告げた。その男は近くの火を指
して、彼女の両親を荼毘に付すところだと言った。

これほど不運な物語は現代の読者には簡単には信じられないかも
しれない。しかしこの程度の災難は、定期的に洪水に見舞われたり、
日照りにおそわれたり、常に何らかの天災に悩まされている地方で
は、今なお珍しいことではない。

それにしても、これ以上悲しい物語を想像するのはむずかしく、
パターチャーラーの物語は、ブッダの教えを生き生きと描く忘れ
がたい逸話であろう。

すべてをなくしたことを知って、パターチャーラーは悲しみにうち
ひしがれて、倒れてしまった。彼女が泣きながら地面をのたうち回
っていると、通りがかった人びとが、ブッダが説法しているジェー
タヴァナ僧院へ連れて行った。

ブッダはそこにいた女性数人に頼んで、彼女を洗い、着物を着せ、
食物を与えさせた。それからブッダは彼女の不幸について説き明か
した。パターチャーラーもブッダの教えに帰依して僧団に加わり、
ついには悟りを得たといわれている。

※ブッダが、まず、この世はすべて無常であり、輪廻転生をくりか
えす間に、大海の水ほどの悲しみの涙を流さねばならないことを説
くと、パターチャーラーの悲しみも薄らいだ。

次に、両親、子ども、親類も最後には頼りとならないこと、至高の
安楽である涅槃を求めるべきことを説くと、彼女は出家を願い出た
という。


従弟のデーヴァダッタと傷ついた白鳥について言い争った子供の頃
から、ガウタマは、すべての生き物を憐れむ人物として経典に描か
れている。

このような慈悲心は「すべては苦である」という教えと表裏一体を
なす。確かにブッダの教えには、慈悲心あふれる行為の例がかずか
ずみられる。

ある日、ブッダは侍者のアーナンダを伴ってある僧院を訪れ、
病気で寝ている僧の部屋に入った。僧は下痢で苦しんでいた。
苦痛がひどく、不潔であったが、誰も彼のことなど気にかけ
なかった。ブッダはたずねた。




次回につづく


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テーマ:仏教・佛教
ジャンル:学問・文化・芸術
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この記事へのコメント
至高の安楽である涅槃
「涅槃」は「さとり」「自己」と同じ意味です。


涅槃 ニルヴァーナ
ニルヴァーナは「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味だから、
煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態をいう。その意味で、滅とか寂滅
とか寂静とか訳された。

滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅

「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味。
涅槃の徳を常楽我浄の四徳と説く。「さとり」は常住不変で、
一切の苦を滅しているので楽、自在で拘束されないから我、
煩悩がつきて汚れがないから浄といわれる。

「至高の安楽である涅槃」は、純粋な<開け>、神聖な<自己>、
無形の<観照者>、原因としての<無>、純粋な<自己>、
純粋な<私は在る>という状態。



理解できなければ、理解できないという意識に安らぐ。
それが、さとりである。

「悟りは、原因と結果に落ちこまない」のではなく
「悟りは、原因と結果、そのまま」である。これが大悟。


2008/09/30(Tue) 20:35 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
大海の水ほどの涙
この世は全て無常であり、輪廻転生をくりかえす間に、大海の水ほどの涙を流さなければならない・・・と、ブッダは説かれる。
次に至高の安楽である涅槃を求めよ、と説かれる。

至高の涅槃とは、マハリシさんのいう、(昨日のろくろくさんのコメントの最後の節の)世界で唯一のリアリティは、{実在するものは、自己のみである}ということに気づくことと同じ意味なのだろうか?
2008/09/30(Tue) 10:28 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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