2008年09月26日 (金) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(57)


弟子 ジュニャーニ(知識者)は、世界を知覚するのでしょうか?

マハリシ その問いは誰からかね。ジュニャーニからかね、
アジュニャーニ(無知者)からかね。

弟子 アジュニャーニからです。認めます。

マハリシ その実在性を決めたがっているのは、世界だろうか、
という問いがあなたの内に起こるはずである。

まず最初に、そう問う者は誰であるかを知りなさい。
それから、世界が実在するか否かを考えるのもいいだろう。


弟子 アジュニャーニは、世界およびその対象物を、触覚や味覚
その他の感覚を魅きつけるものとして見、理解します。ジュニャー
ニは、そのようなやり方で世界を経験するのでしょうか?

マハリシ あなたは、世界を見ること知ることについて語っている。
けれども、知る主観であるあなた自身を知らないで(それなくしては
対象物の知識は何もない)、どうして知られる対象物である世界の本
質を知ることができようか。

対象物が身体および感覚器官に影響を及ぼすことは疑いない。しかし、
その問いが起こるのはあなたの身体に対してなのかね。身体が「自分
は対象物を感じる。それは本当か」というのかね。

それともあなたに「私は世界である。それは実在か」と問うのは世界
なのかね。

弟子 私はただ、ジュニャーニが世界をどのように見るのか、理解し
ようとしているだけです。自己実現の後にも世界は知覚されるのでし
ょうか?

マハリシ なぜあなたは、世界のことだとか自己実現の後に起こるこ
とについて、思い悩むのか。まず自己を実現せよ。世界が知覚されよ
うが知覚されまいが、そんなことは問題ではない。

眠っている間は世界の知覚はないが、それによってあなたの探索に何
か得るものがあるだろうか。反対に、今は世界を知覚しているが、
それで何か失うものがあるだろうか。

世界を知覚するしかないということは、ジュニャーニにとってもアジ
ュニャーニにとってもまったく重要な問題ではない。それは両方によ
って見られるが、見方が違うだけである。

弟子 ジュニャーニとアジュニャーニがそのように世界を見るのであ
れば、その違いはどこにあるのでしょうか?

マハリシ 世界を見るとき、ジュニャーニは、そこに、見られるもの
すべての基礎である自己を見る。アジュニャーニは、世界を見ていよ
うと見ていないとにかかわらず、彼の真の存在である自己を知らない。

映画館のスクリーンに映される動きについて考えてみるといい。映画が
始まる前に、あなたの眼前には何があるか。スクリーンだけがある。

映画が始まると、スクリーンの上にあなたはできごとを見る。
どう見てもそれは本物である。けれども行ってそれをつかまえ
ようとしても、なにもつかめはしない。

ただスクリーンの上にだけ、光景は事実として現れている。
劇が終わり、光景が消えたとき何が残るか。スクリーンだけである。

自己についても同じである。ただそれだけがある。
光景は、やってきては去ってゆく。あなたが自己を把握していれば、
光景の現われに騙されることはないだろう。



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
世界は非現実である
今日のところは、
悟った人は世界がどのように見えるのかということですね。

マハリシ老師は、悟っていない人と悟った人は世界の見方が違う
という。

世界を見るとき、
悟った人は、そこに、見られるものすべての基礎である自己を見る。
悟っていない人は、世界を見ていようと見ていないとにかかわらず、
彼の真の存在である自己を知らない。


マハリシ老師は、弟子をこの場で直に悟りへ導こうとしますから、
このようになんだかよくわからない説明になってしまいますね。


悟っていない人(私たち)は、世界は実在していると見ていますが、
悟った人は、世界を実在するようには見ないのです。

たとえば夢の世界において、世界は実在しているようにしか見え
ません。しかし、夢から目覚めれば夢であったと自覚できます。

それと同様に、目覚めた世界しか見えない(悟っていない)人にとっては、
世界は実在しているようにしか見えません。悟ってしまうと明らかに
実在していないことがわかるということなのです。



「 もしあなたが真理を求め、真理のみを求めるならば、
世界を非現実のものとして受け入れる以外には方法がない。

なぜなら、あなたが世界は実在であるという考えを棄てないかぎり、
あなたの心は世界を追い続けるだろうという、単純な理由からである。」 

ラマナ・マハリシ



2008/09/26(Fri) 19:43 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
弟子の苦しみ
世界に幕がかかったように、掴もうとしても掴めない。説明されればされるほど、対象と感じる自己は遠のくように感じる。渇望して渇望して、手に入りそうで入れない恋人を求めているに似ている。よーく事実をみれば、焦がれている恋人は、ずーと前から 陰になり陽なたになり、自分と一体に歩んでいるのに、それに気がつかないで求め続けている・・
「ここにいるよ ここにいるよ ほら 君と共にいるんだよ 気がつきなさい 気がつきなさい ほ~~ら よそ見しないで!」迷い子になってる子供を母親がやさしく辛抱強く呼びかけている。 
そんな感じです。

青い空と雲、スクリーンとそれに映し出される映像との関係。どちらも自己という得体のしれないもの(ことばにできないもの)を的確に表現されている「例え」なのだとおもいます。マハリシさんも同じ経験をされたにちがいない。その苦しさから、救ってあげたいと心から思われているのが伝わります。
そんなことどっちでもいいじゃないか!
おっとどっこい、そうはいかない。
このお弟子さんにとっては、生まれいづる深い悩みなのだ。ここをくぐらなければ、この方にとって、すべてはむなしい。
しかし、このお弟子さんの質問がすばらしい。疑問を持つということは、すでに答えは手中していると聞いたことがある。やまんばなら、こんな高等な質問は、思いも浮かびません^^^。賢い方なのですね。

昨日のろくろくさんは炸裂していましたね。なかなか素敵でした^^
2008/09/26(Fri) 07:30 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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