2008年09月25日 (木) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(56)


弟子 マーヤー(幻惑)のヴェールをはぎとるのは、それ自身に
ヴェールをかけているアートマンであるから、アートマンの助け
が必要だと言ってはいけないでしょうか?

マハリシ あなたはそう言うだろう。

弟子 アートマンが、それ自身にヴェールをかけているのだとす
れば、それ自身がヴェールを取り去るべきではないでしょうか?

マハリシ それはそうするだろう。誰にヴェールがかかっている
のか、見なさい。

弟子 なぜ私がそれをせねばならないのでしょう? アートマン
自身にヴェールをはがさせればよいでしょう?

マハリシ アートマンがヴェールについて話しているのなら、
アートマンそれ自身がそれを取りはずすだろう。


弟子 神は人格的なものでしょうか?

マハリシ そうだ。彼はつねに最初の人であり、あなたの前に
つねに立っている「私」である。あなたが世俗のものごとを優先
するので、神は背後に隠れているように見える。

あなたが他のすべてをあきらめ、彼のみを見るならば、ただ彼だ
けが「私」として、自己として残るだろう。

弟子 実現の究極状況について、アドヴァイタ(不二一元論哲学)は
神性との絶対結合を言い、ヴィシュドヴァイタ(制限的不二一元論
哲学)によれば、適正者のみの結合を言います。

そしてドヴァイタ(二元論哲学)では、神性との結合はないと言って
います。これらの内のどの見解が正しいと考えられますか?

マハリシ なぜ、未来のある時に起こるであろう事柄について思弁
するのかね。「私」が存在すればすべては了解される。彼がどの学
派に属そうと、彼が熱心な求道者であるならば、まず最初に「私」
は何かを見つけ出させよ。

そうすれば、究極状態がどんなものであるかを知る時間はたっぷり
あるだろう。「私」が至高の存在に溶けこんでいるのか、彼とは別
のものとしてあるのかがわかるだろう。結論を先に出すのはやめて、
開かれた心を持とうではないか。

弟子 しかしながら、究極の状態についてのある程度の理解は、
有益な導きになるのではないでしょうか?

マハリシ 究極の実現状態がどのようなものであるかを、今決めよ
うとすることには、何の目的もない。それには本質的な価値は何も
ない。

あなたが悪い原理に沿って進むからである。あなたの確認は、自己
から放射される光によってのみ輝く知性に依らなくてはならない。

制限された現われにすぎないものであり、そこからはほとんど光が
やってこないものを、知性の一部で批判することは、無遠慮という
ものではないかね。

決して自己には到達することのできぬ知性が、どうして究極の実現
状態を確認することができ、ましてそれを決定することなどできよ
うか。

それはまるで、蝋燭(ろうそく)の光の標準で太陽の光をその源にお
いて測ろうとするようなものだ。太陽のそばまでくるまでもなく、
蝋はとけてしまうだろう。

単なる推測に耽る代わりに、あなた自身を、ここで今、つねにあな
たの内にある真理の探究に捧げなさい。



次回につづく


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ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
ただひとつ残る自覚
私ろくろくは、もうすっかりラマナ・マハリシ老師の弟子
になったつもりでおりますが、今回登場のお弟子さんは
かなり屁理屈が多くてやっかいな方ですね。

そういうわけで多少噛み砕いてご説明しないと、取っ付き
にくい文章になっています。

「あなたが他のすべてをあきらめ、彼のみを見るならば、ただ彼だ
けが「私」として、自己として残るだろう。」

ここでの彼とは神のことを指しています。
「あなたが神のみに帰依すれば、神が究極の存在として在るだろう」
という意味です。

マハリシ老師は、ここですでに「あなたが神に帰依すれば、あなたと
神は一体なのです。」と答えているにもかかわらず、分からず屋の
弟子は、「神との結合はあるのかないのか」と尋ねています。

マハリシ老師は、「「私」が存在すればすべては了解される。」と
辛抱強く答えています。そして、

私の中の究極の目撃者としての「本当の私」=神が存在することを見出
せば、すべての謎が解けますよ。と語っています。

だから、まず最初に「私」は何かを見つけ出しなさい。
そうすれば、究極状態がどんなものであかわかるだろう。


マハリシ老師の教えは、こうです。

今、私の目の前に現れているもの、それは私ではない。
日の光、鳥の声、本、それらは私ではない。
私の身体も、私そのものではない。
なぜなら、私はそれに気がつくことができるから。

私の感情も私そのものではない。
なぜなら、私はそれに気がつくことが出来るから。

私の思考も私そのものではない。
なぜなら、私はそれを対象化することが出来るから。

では、私とはいったい、誰か。

今述べたことのすべてを「これではない」、「これではない」
と否定し去った後に、ただひとつ残る自覚、それが「私」である。



2008/09/25(Thu) 17:36 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
開かれた心を持とう^^
マハリシさんは「あなたが他のすべてをあきらめ、彼のみを見るならば、ただ彼だけが「私」として、自己として残るだろう」といわれる。ここが印象的な言葉でした。

昨日のろくろくさんのコメントの、メーテルリンクさんの文章は、想像力が刺激され、また自然観察がされて、知恵もあり、表現が詩のようで、惹かれました。やまんばは・青い鳥・以外は知りませんでした。感謝です。

女王蜂の結婚は学生時代の生物の時間を思い出しました。いつも堅物の女先生。女王蜂の結婚を説明されたのを鮮明に覚えています。「女王蜂は空高く舞い上がり、雄とちょちょっと、交わり、それでおしまい」あまりにも説明が早く、すぐ次の勉強に移られたのです。みんなあっけらかんとしたのを、思い出しました^^。
2008/09/25(Thu) 16:01 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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